【神神の契約】釈 

西風隆介による公式の謎本  

金比羅神社の惨劇

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 このお堂は文化十三年(1816年)の改修だそうで、つまり200年以上も経っており、遠目にはそこそこ見られても拡大すると見すぼらしさが際立つ。扉の小窓は宮乃咩神社の旧社殿と同じく宝珠窓だったのでは、とも想像されるが、修理が追いつかずにああなったのだろうか。
 ところが、近年、さらなる惨劇がこの金比羅神社を襲うのだ。

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 平成29年4月30日、大國魂神社からここへと通じる頑丈な扉が、一方的に閉鎖(終日施錠)されてしまったのである。告知紙に「神社西参道の竣工に伴い」とあるのは写真の真新しい巨大鳥居のことで、こんなものに大金を投じるぐらいだったら金比羅神社を助けてやれよ(と筆者は思うのだが)、神社の考え方はむしろ真逆のようで、ええい目障りな金比羅神社め、扉を締めてやったぞ、これで参詣客は流れて行けまい、つぶれてしまえ!……

 

 本家讃岐の金刀比羅宮では〝金比羅〟は一切祀られていない。明治の神仏判然令で自ら完全に破棄したからだ。
 忌部系の大神様の神社には原則金比羅がつき従っているが、ここ以外は境内社だ。つまり単独の金比羅神社で、実際に金比羅が祀られている日本最古の神社の可能性が、この金比羅神社にはあるというのに(忌部が関係すると日本最古の話が多い)。

 

 

大國魂神社の〝裏の七不思議〟

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大國魂神社の拝殿の紙垂は、世にも珍しい「鏡折り」になっている。

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本殿の狛犬阿・吽が左右で、紙垂も「鏡折り」である。

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本殿の屋根飾りからは、祭神は女神様が示唆される。

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大銀杏の御神木は本殿裏のさびしい場所にあり、表の七不思議で根がほじくり返されている。

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拝殿に 「総社六所宮」 という扁額をかかげながら祭神は九柱だ。

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祭神は九柱なのに神輿は八基しかなく、うち一基にだけ珍しい「」の飾りが付いている。

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大銀杏裏の鎮守の森の南の端っこの崖上(ハケ)に「金比羅神社」が立っている。

 

日本最古のお祭り〝くらやみ祭〟

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 大國魂神社は西暦500頃から「南斗」だったので(さきたま古墳群が「北斗」)、東京都指定無形民俗文化財武蔵国国府祭・大國魂神社例大祭くらやみ祭〟は、プリミティブな北辰祭と言えるだろう。本来、北辰祭は「南斗」でやる決まりだからだ。そもそも「南斗」は、祭りだあ祭りだあ、と飲めや唄えの乱痴気騒ぎをやるために設定された場所で、またそうすることによって南斗の神様は喜んでくれて彼らの寿命を延ばしてくれる、とそんな信仰だからである。
 南武蔵の最初期の「南斗」だった岸谷杉山神社は300年頃、阿波の若杉山遺跡の「南斗」は200年代初頭で、もちろん同一氏族が関与していて〝日本最古の祭り〟なのである。

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「南斗は匙(さじ)の形をした食物のいれものであり、食器としての南斗は神饌の中継者である」と、日本の民俗学の権威・吉野裕子(1916~2008年)は説く。
 大國魂神社は、拝殿・本殿ともに真北を向いていて、もちろん参道も真北を向いている。そこで催されるくらやみ祭の様々な狂宴は、大音響の太鼓も、屋台での飲み食いも、お化け屋敷ですらも、北斗に手向けられた神聖な貢ぎ物なのである。

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ありし日の〝宮乃咩神社〟

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 大國魂神社の大鳥居(御影石製では日本一)をくぐって1、2分歩くと、左側に石畳の細い参道が直角にのびていて、その先に〝宮乃咩神社〟が建っている。だが、写真のような風情ある社殿は、すでに無い。
 扉の小窓が可愛いが、やはり〝宝珠窓〟と呼ぶそうだ。
 なお建て替えのさいに、国衙「西門」の遺構が発見された。

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 下3枚の写真は建て替えた後のそれだが、宮のめの表記にはゆれが見られる。
 正面の扁額は今も昔も「宮乃賣」だが、「賣」は「売」の旧字で「比売」として使われるのが一般的だ。
 敷石新設記念で奉納された絵の額は「宮乃咩」だ。
 北多摩神道青年会の説明板は「宮之咩」で、提灯もこれだろう。

 「乃」と「之」の差異は無視できるが、「」と「」は、えらい違いである。

 大國魂神社のホームページには「宮乃咩」神社とあり、これがいわゆる公式見解だろう。
 明治初年の太政官布告神仏判然令』に伴い、摂社・末社に至るまで神社名や祭神名を確定する必要に迫られ、時の大國魂神社宮司さんが、この「宮乃咩」という文字で提出したのだ。明治以前の古文書類に表記ゆれがあり、かすかな伝承(神社の秘密の奥義)などをもとに、この「咩」を採用したのだろう。
 だが太政官布告など今となっては死に法なので、摂社ぐらいの名称は変えようと思えば比較的簡単に変えられそうに思える。
 西風隆介みたいなゴロツキに痛くもない腹を探られたくはない!……「咩」はやめて普通の「賣」にしたい、そんな神社側の本音が「宮乃賣」という扁額になって表れているのでは、とも想像できるのだ。

 

 

幻の〝忌部〟連合国

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  大和三山は意外に小さく、標高は天香久山152メートル・畝傍山199メートル・耳成山140メートルで、一辺5キロに満たない三角を形作っている。
 古代、大王(だいおう/おおきみ/おほきみ=天皇)が交替すると京(みやこ=天皇の宮殿)を新造したが、大和三山の近くや三輪山の南あたりを転々としただけで、蘇我氏が豪邸を建てた甘樫(あまかし)岡は、天香久山から南へ2キロほどの場所だし、日本で最初の条坊制の都(みやこ)の藤原京(694~710年)も、この大和三山の内側に造られたのだ。

 前方後円墳だが、北から第10代崇神天皇陵、第12代景行天皇陵、そして箸墓だ。

  古代の倭(やまと)の国の様々な事件や歴史は、奈良盆地の南の端っこであった話で、意外とスケールは小さいのである。

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 上のイラストは「毛野」のWikipediaにあったSaigen Jiro氏作成の「毛野を含む古墳時代の主な勢力」図を借用した(パブリックドメイン)。日向は、高千穂への降臨伝説を真に受けている人はおられまい。美濃・尾張は、つまり尾張大國霊神社のことだ。大和は、古代の倭は、その勢力範囲はこれほど大きくはない。
 ところで、〝忌部〟は影も形もない。阿波・讃岐・安房・南武蔵・北武蔵そして伊豆諸島など広大な領土を誇っていたというのにだ。

 

 

小山〝安房神社〟の秘密

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 穀(かじ)の木が生(お)うる所なり、故(ゆえ)、結城(ゆうき)の郡(こおり)という。と『古語拾遺』にあった結城市、その西隣の小山市にある安房神社は、忌部氏の最終到達点と考えられていて、実際かなり奥地だ。
 社伝によると、第10代崇神天皇年代の創建で第16代仁徳天皇年代に再建、だそうだが、南武蔵の大國魂神社(宮乃咩神社・大麻止乃豆乃天神社)よりは明らかに後年なので(川筋が複雑で伝承の「舟太郎」の助けがないと到達できない。地図は現代の整備された川筋で、古代はアマゾンの秘境なみだったはず)、創建の実年代は、西暦300年代のどこかだろう。
 ところで、小山安房神社ほぼ真北、約10キロほどの場所に〝下野国庁跡〟があるのだ。いわゆる国府地である。その付近を拡大したのが、次の航空写真地図だ。

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 国庁跡の敷地内に、かの〝宮目神社〟が鎮座しているではないか!……
 ご存じ、忌部の入植と町作りをしめす北の女神様で、これで4例目だ。

 ★ 后神天比理乃咩命神社 ⇔ 安房神社 250年頃
 ★ 宮乃咩神社 ⇔ 大麻止乃豆乃天神社 280年頃
 ★ 宮目神社(玉敷神社) ⇔ 川島杉山神社 450年頃
 ★ 宮目神社(下野国庁跡) ⇔ 小山安房神社 300年代

 ほぼ真北と書いたのは、1・2度(距離では約170メートル)ほど東にずれているからで、忌部&三嶋的には「緩い」といわざるをえない。
 だが、航空写真地図をご覧になれば分かるように、一辺80メートルほどの国庁の中央区画に一神社が建っていたはずはなく、国府が廃れてしまった後(あと)、それを忍んで遷座されたものなのだ。実際、国庁の正殿跡と目される場所に建っていて、神社の撤去(引っ越し)費用がかさむため発掘調査は滞っているそうだ。
 古社地や創建年など詳しいことは判っていないが、忌部の几帳面な(しつこい)性格からして、南北線にきちっとのせていただろうと想像され、大國魂神社では宮乃咩神社は国衙の西門にあったので、こちらも同様の位置関係だった可能性は高い。


稀少な〝忌部〟関連の書籍

 忌部の正体とか忌部の秘密とか、気軽に読めそうな書物は皆目無い。古代史関連の本を百冊ほどは執筆されていそうな関裕二のラインナップを見渡してみても……無い。氏の著作 『神社が語る 古代12氏族の正体』(祥伝社新書)の12氏族とは「天皇家出雲国造家、物部氏蘇我氏尾張氏、大伴氏、三輪氏、倭氏、中臣氏、藤原氏阿倍氏秦氏」で、な、なんと、忌部氏は含まれていないではないか!……

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 筆者が『神神の契約』の全体像を着想したのは約15年前だが、当時、入手できた忌部関連の書籍って、ほぼ、この2冊しかない。
 ★ 『『古語拾遺』を読む』青木紀元監修・中村幸弘/遠藤和夫共著(右文書院)2004年。
 ★ 『古語拾遺斎部広成撰・西宮一民校注(岩波文庫)1985年。
 右文書院のそれには現代語訳が付いていて大判で文字も大きく読みやすいが(その分高価)2冊の中身に大差はなく、必要最低限の解読本だ。
 だがつい最近、もう一冊出版されていたことを知った。

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 ★ 『現代語訳古語拾遺菅田正昭著(新人物文庫)2014年。
 前二冊とは違って、煩雑な補足説明(ネットでも検索可能なもの)は付いておらず、著者独自の【註】は読みごたえがある。また、第二章『古語拾遺』の研究「『古語拾遺』の成立と斎部氏の歴史」にページの約半分が割かれており、忌部研究本として(すこぶる)充実している。巻末には「全国忌部系神社一覧」などもあって、この本の存在を知っていれば『神神の契約』を書くさいに随分と近道できたのにと悔やまれる。
 手軽に読める忌部関連の最高の良書だろう。だがしかし、今現在は転売屋の餌食にされてしまい法外に高騰して入手は容易ではない。発売された時期が悪く、新人物往来社中経出版に買われ、さらにカドカワに買われ、と出版元が三重構造になっているせいで重版のめどが立っていないのだ。この種の良書が埋もれてしまうのは、実に惜しい。 

 

まな美と土門くんが喋る〝忌部〟のルーツ

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「なんだか、話すのとっても久しぶり、て感じがする」
「自分も十年ぐらい冬眠しとったような気が、せーへんこともないこともあらへんぞう」

  麻生まな美と土門くん(土門巌)は、私立M高校の二年生で歴史部員である。ふたりは鎮守の森の屋敷の「第二部室」の炬燵に足を突っ込んで話している。

「さきたま古墳群は北極星と北斗七星だ、と言い出したのは、そもそも土門くんだったわよね」
二重星のミザール、いわざるきかざるぅ!……」
 懐かしい与太を土門くんは口ずさんでから、
「〝〟の神社はあやしい、と見抜いたんは姫やろ、さすが漢字の神さまや」
 あれこれあって、まな美は「姫」と呼ばれているのだ。
「ほんでもって忌部にたどりついて、多摩川へ入植したことを突きとめた」
「そう思って考えてみると、ふたりが言ってた事って、合ってたのよね」
「世にも珍しや……だいたいどっちかが間違ごうとんのにな」
 と、土門くんは、まな美の方を指さす。巨大な手の長い人差し指で。
 まな美も、小さな手の中指と人差し指で負けじと応戦しながら、
「その忌部だけど、突然ひらめいて、あのように天空を模した巨大遺跡を造ったりは出来ないわよね。きっと古代からやっていたに違いないと調べていくと……」
「四国の阿波まで辿りつくんやろ、変な名前のやつや。おおとのじ、おおとのべぇ~」
 土門くんは、ことさら語尾を強調していった。
「それは町作りの拠点の方よね。南斗と北斗は、若杉山遺跡と萩原二号墓」
「そやそや、忌部は基準線を二本つくるんやったな。そやけど、あれはほんまに日本最古の神社なんか? おおとのじ、おおとのべぇ~は?」
「『古事記』原文七行目で語られているんだから、間違いないわ!」

 天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。
 次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
 上件五柱神者、別天神。
次成神名、國之常立神訓常立亦如上、次豐雲上野神。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
次成神名、宇比地邇上神、次妹須比智邇此二神名以音、次角杙神、次妹活杙神二柱、次意富斗能地神、次妹大斗乃辨此二神名亦以音、次於母陀流神、次妹阿夜上訶志古泥神此二神名皆以音、次伊邪那岐神、次妹伊邪那美神。此二神名亦以音如上。

 

「ちなみにイザナギイザナミが登場してくるのは、その次の行ね」
「ふ、ふ、ふ、ふ……ついに、ついに、あの憎っくき大神神社に引導を渡してやったぞう」
「浄山寺のお地蔵様も、さぞやお喜びだと思うわ」
 地蔵尊どちらが日本最古か論争で歴史部は浄山寺のそれに肩入れしていることもあって、法隆寺の国宝地蔵菩薩像は元来は大神神社にあったので、大神神社は一方的に歴史部からは仇敵扱いされているのだ。
「このふたり、なんで微妙に漢字ちがうん?」
「それはね、此の二神の名は音読みをしろ、とすぐ下に小文字の補足文があるでしょう。訓読みしろって箇所も他にあるわよ。つまり音読みしたさいに、間違いが生じないように、異なる万葉仮名をつけたんだと思うわ」
「へえ……念のいったことやなあ」
「だから意富斗乃と大斗能は一緒で、漢字そのものに意味はないのね。けど末尾の、これは意味深なのよ……」
 と、まな美は最大限謎めかしていった。
「じぃ~、べぇ~、どのへんが意味深なんや?」
「語尾がの男女の神様なんて、『古事記』と『日本書紀』で、これが唯一なのね」
「忌部に関係すんの、そんなんばっかしやんか」
「極端に古い一族だから、どうしてもそうなるの。そしてこのをたどっていくと……忌部のルーツが分かるかも、しれないのよ」
「忌部のるーつ、もう判明したんちゃうん? 第二代綏靖(すいぜい)天皇やいう噂が」
「それって、『魏志倭人伝』と『記紀』神話から導かれた話でしょう」

 

 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定(卑弥呼が死んだ。大きな塚をつくった。径は百余歩、殉教者は奴婢百余人。そして男王を立てたが、国中が服さない。互いに誅殺し合って、当時千余人を殺した。卑弥呼の宗女の壹與という十三歳の娘を王とすると、国中がついに平定した)。

 

卑弥呼が亡くなっておこる国の内乱は、神武天皇崩御直後の〝ミミの三兄弟〟の争いと符号するわよね。そして投馬国が阿波だとすると、忌部すなわち綏靖天皇だと自動的に推理できる。けど、萩原二号墓と若杉山遺跡の北斗・南斗って、卑弥呼が亡くなった247年より、古い遺跡なのよ。どう辻褄合わせるの?」
「そやったら、綏靖天皇が、北斗・南斗信仰やったんとちゃうん?」
「その信仰は、突如として、空からでも降ってきたのかしら?……」
「ほんじゃ親っさんが、北斗・南斗信仰やったんや!」
綏靖天皇の父親って、神武天皇よ」
「う~んほやったら、天孫降臨のころから、もいっそのこと天照(あまてらす)さんから、北斗・南斗信仰やったことにしたらええやんか」
 と、土門くんは投げ槍にいう。
「ほらね、もう収拾がつかなくなるでしょう。だから神話は神話、実話は実話と、別けて考えないと」
「ええ~どっちが実話でどっちが神話なんや? も古すぎてよう分からへんぞう」
綏靖天皇神武天皇は、神話。北斗・南斗と『魏志倭人伝』は、実話ね」
「なるほど、そういう分け方するんか」
「その実話の方の話なんだけど、このの語尾変化には、わたしちょっと心当たりがあるのよ」
「お、またしても漢字の神さま降臨かあ」
「このさい漢字は関係しないわ。随分前だけど、薬師如来真言(しんごん)を謎解きしたことがあったでしょう。オンコロコロセンダリマトウギソワカ、という呪文」
 まな美は、鈴の音(ね)のように声を作っていった。
「それ覚えとう覚えとう。そして円仁さんが、それを応用して摩多羅神の呪文を作ったんや」
「そのセンダリとマトウギだけど、これはインドの種族名の、女性を表しているのね。男性を表す場合には、センダラ、マトウガ、といったふうに語尾が変化するのよ」
「それ、そもそも何語なんや?」
サンスクリット語、もしくはパーリ語ね。仏教の経典に使われているインドの古代言語よ」
「せんだり~せんだら~まとうぎ~まとうが~おおとのじ~おおとのべぇ~」
 土門くんは、音符を奏でるようにしばらく呟いてから、
「微妙に違うやんか。あっちは、男があ~女がい~。こっちは、男がい~女がべぇ~」
「べぇー、じゃなくて、エ」
 まな美は、強く訂正してから、
「つまりインド由来ではない、ということが分かるわよね。でもインドのお隣って、中国じゃない。それに北斗・南斗信仰は明らかに中国の道教よね」
「姫。姫の論理が見えてきたぞう。ちなみに中国語は語尾変化すんのん? 男性女性で」
「現代の中国語は……しない」
「案の定や。つまり古代の中国語で、少数民族が使ことったような言葉で、おんなじように語尾変化するんを見つけ出したら、それすなわち忌部のるーつ、いうわけやなあ」

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西角井正慶の神社分布図をもとに

 『神神の契約』304ページ「謎の久伊豆神社」に付けようとしたが割愛したイラストを紹介しておこう。西角井正慶が作成した有名な〝神社分布図〟をもとに、忌部関連の神社などを加筆したものだ。氏の古典的名著『古代祭祀と文学』中央公論社から写真撮影したので歪みはご容赦願い、これは1966年の著作で、よくぞここまで丹念にプロットしたものだと頭が下がる。おびただしい数の氷川神社香取神社に挟まれて、細長く〝久伊豆神社〟の群が姿をあらしているのが見てとれるだろうか。ちなみに、多摩川より南側には、多数の(50ぐらいの)杉山神社が点在する。

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 忌部は町作りをするさい、南北に貫く基準線を2つもうける。
 1つは男神・女神の神殿(三嶋大明神と神神の契約をかわして以降は、北に女神・南に男神を置く)。
 もう1つは北斗・南斗で、北斗はお墓で禁足地のネクロポリス、南斗は飲めや唄えのどんちゃん騒ぎの場所だ。

 南武蔵の入植に際しては、契約の神殿の女神・男神多摩川をはさんで両岸に建て、北斗・南斗の宝莱山古墳岸谷杉山神社は約11キロと、比較的コンパクトな設計だ。
 だが一転、北武蔵への入植では、契約の神殿の玉敷神社(正しくは宮目神社)・川島杉山神社は約71キロ、北斗・南斗のさきたま古墳群大國魂神社は約51キロと、べらぼうに遠距離に建てている。武蔵国の全域は俺たち(忌部)のものだあ、と宣言したわけだろうが、上のイラストを見れば分かるように、氷川神社群が間にはさまっていて、事はそうそう簡単ではない。

 

 

蘇我氏の東国の拠点、世が世ならば神宮の〝蘇我比咩神社〟

 次のイラストは、国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所「霞ヶ浦の変遷・昔はどうなっていたか/約1千年前」の地図をベースに、神社4箇所を加筆したものである。

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 香取神宮鹿島神宮は、そもそもは要害で、国境で、蝦夷(えみし)に対する最前線基地だが、古代、香取の海を境にして北方は別の国だったのだ。
 だが、あのような辺鄙な場所に香取・鹿島の両基地を置いたって機能しない。バックアップが必要だ。房総半島の突端の安房や、南武蔵の多摩川沿いに〝忌部〟が拠点をもうけてはいたが、いかんせん遠すぎる。もっと近場に中継基地が欲しい、で出来たのが蘇我氏の拠点〝蘇我比咩神社〟なのだ。第15代応神天皇の命により蘇我一族が国造として派遣された、とそんな伝承だから、東国の他の主だった神社(香取・鹿島・安房・大國魂など)よりは新しく、ざっと西暦400年頃だろうか。

 蘇我宗家の滅亡は大化元年(645年)だが、その半年ほど前、蘇我蝦夷と入鹿の親子が甘樫(あまかし)岡に豪邸を建てた話が『日本書紀』に載っている。そのおり「常に五十の兵士を身にめぐらして出入りす。健人(ちからびと)を名づけて、東方の儐従者(しとべ/しとりべ)という」とあって、いわゆるボディーガードをはべらしており、それを東国の軍事拠点から呼び寄せていたらしいのだ。つまりここ〝蘇我比咩神社〟からだったのだ。 

 

 正三角形の頂点である大麻神社は 『神神の契約』242ページで説明したが、忌部の性質からいって軍事拠点ではなく、神霊的な守護が目的であったと想像される。
 鹿島神宮は、香取神宮から見て正確に45度、すなわち鬼門の方角に建っている(これはそこそこ知られた話だ)。では、その鬼門線を逆方向(南西方向)にずーっと延ばしていくと、ごく小っぽけな神社にピタリとあたるのだ。それが〝蘇我比咩神社〟なのである(こちらは本邦初公開のはずだろう)。
 鹿島・香取両神宮を鬼門守護にあてがうといった超豪華な仕組みなのだが、その後の蘇我氏の栄華っぷりを考えるに、さもありなんだろうか。また、この神社の位置決めには〝忌部〟が一役買っていたのでは、とも想像される。こんな遠距離の斜め線、三嶋一族の特殊技能(人間GPS)を借りないと不可能だからだ。
 いずれにせよ、鹿島神宮香取神宮蘇我比咩神社は、見事に一直線に並んでいる。だから世が世ならば 〝蘇我神宮〟だったはずなのである。

 

 

〈其の4〉〝多摩川〟のタマの由来は?

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  古代は〝多摩川〟が道である。川を遡っていくと河口から十数キロのところでカクンと左に折れてやや蛇行する。その正面(右手側)の崖上に古墳を建てたのだ。それが東国で最初の前方後円墳〝宝莱山古墳〟で、おおよそ西暦300年だ。上の写真は、その手前の @ の場所から撮影している。
 付近は古墳公園として整備されていて、多摩川台公園古墳展示室で購入できる『大昔の大田区 原始・古代の遺跡ガイドブック』に付録する「古墳散策マップ」をスキャンさせてもらったが、多摩川ハケ(崖上)約5キロにわたって大小多数の古墳が立ち並んでいるのが分かるだろう。

 太古の船旅〝ジャングルクルーズ〟を想像するに、木々の合間から巨大遺跡が次々と現れ見えてきて、さぞや興奮したに違いない。古代人は、なかなかの演出家なのだ。

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  多摩川のタマの語源は、いくつか考えられる。
 ① 田園調布、調布市、布多天神社、布田、川崎市麻生区、麻生川、大麻止乃豆乃天神社など、多摩川は古来から麻と布の川で、「多麻川に さらす手作りさらさらに」と万葉集に記されてあったように、多い麻と書いて多麻(タマ)。
 ② この多摩川に入植して開拓したのは〝忌部〟で、彼らが奉っていた大神様は〝天太玉命〟だが、それを漢字一文字で表せば、やはり「玉」となる。それは大國魂神社の魂(たま)で、魂(たましい)という意味にもなるだろう。実際、世田谷区の町名では「玉川」を用い、二子玉川などがそうだ。
 ③ ヒリ・モトゥなどの南島語では、父親のことを「タマ」といい、転じてボスや王様を意味するのだ。
 このどれか、というより、これらが合わさって多摩の語源になったと考えた方が自然かもしれない。

 

 さて、ここが多摩川多摩地域だと、すなわち「多摩」が地名として確定すると、さきたま古墳群がある北武蔵に影響が及ぶのだ。ここと北武蔵は離れてはいるが、同一国だからである。
 前玉神社という名前は、元来は古墳群周辺の位置関係を表すネーミングだったと想像されるが、地理的には多摩の真北、つまり先にあるので、サキタマ、ともなる。つまり一神社の名称が、地名へと格上げされた、とも考えられるのだ。

 

〈其の3〉〝前玉神社〟の奥義

 神様や神社のような宗教的事物は、重層的な解釈が可能であればあるほど信仰を勝ち得て後世まで存続できる、というのが筆者の持論だ。摩多羅神しかり金比羅神社しかりだが、この〝前玉神社〟も例に漏れずだろう。
 「前にある玉だから前玉」は単純で誰にでも分かるが、それだけでは薄っぺらく深みがない。別途、神官だけが知りえる奥義〝秘密の口伝書〟のようなものがあって然るべきなのだ。

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 『神神の契約』本文でも解き明かしたが、丸墓山古墳は北極星を象徴しており、古代中国で編まれた星図・星官では「帝」という漢字があてられ、それすなわち忌部の大神様「天太玉命」を意味している。
 天太玉命から純粋な名前を抽出すると、やはり「玉」となるだろう(『魏志倭人伝』の不弥国の国王のタマでもある)。
 丸墓山古墳は、その形状からも、裏に隠されている神名からも「玉」であって、その前に置かれているから前玉神社なのだ。
 また星図・星官では、前玉神社は太陽守(Taiyangshou)の位置に置かれ、「天帝の門を守備している」ことは『神神の契約』336ページで解説した通りである。これなどは、いわば〝最終奥義〟となるだろうか。

〈其の2〉〝前玉神社〟の前玉(サキタマ)とは?

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  前玉神社は、浅間塚古墳と呼ばれる〝円墳〟の、ほぼ頂上部に建っていて、上の地図イラストをご覧になれば分かるように、二子山古墳(さきたま古墳群で最大の前方後円墳)を中心にして、丸墓山古墳とは対称の位置(等距離)に置かれている。
 この地図イラストを、しばらくじーっとながめていると、なぜ前玉(サキタマ)と呼ばれているのか、その謎が解けてくるはずだろう。もちろん命名者は〝笠原一族〟すなわち〝忌部〟であったろうが。

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  丸墓山古墳は日本最大の円墳だが、形状は真ん丸で、まわりの濠(ほり)もまるく、ここにだけ葺石が貼られてあったので白っぽく、異彩を放っていた巨大な構造物だ。
 仮に、それを漢字一文字で表すとしたならば、つまりこうなるだろう。

 ――― 玉(タマ)。

 先の地図イラストを説明するに、前玉神社とは「巨大な玉の前に小さな玉があって、そこに建っている神社」で、これを簡略化して「前玉」神社なのだ。
 いわゆる〝オッカムの剃刀(思考節約の原理)〟的な単純明快な謎解きだが、『神神の契約』本文には書かなかったので、本邦初公開のはずだ(謎解きの独自性に関しては精査しているつもりだが、その件は私が先に謎解きしている、とご不満の方がおられれば是非ご一報を)。