【神神の契約】釈 

西風隆介による公式の謎本  

まな美と土門くんが喋る〝古代の大使館〟

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「この忌部の玉作の代わりに、物部氏香取神社みたいなのを置いたとしたら、どうなると思う?」
「即戦争やあ」
 土門くんは、ことのほか嬉しそうにいう。
「忌部って、原則戦わない人たちなので、許されたのかもしれないわ。それに出雲玉作の遺跡は、弥生時代の末頃まで遡れて、つまり200年代前半よね。そしてこの頃は、忌部はすなわち、ほぼ倭(やまと)朝廷と等しいので、ここが交渉の窓口を兼ねていたと思われるのよ」
「その交渉いうんは、大国主命の国譲りやろう?」
 まな美は、こくりと頷いてから、
「だからつまり、ここは〝古代の大使館〟だったわけなのね」
「まあ、それはいえへんこともないこともあらへんこともなさそうや」
 土門くんは煮え切らない態度で、ねっちりくっちりいう。
「それに思川(おもいがわ)のところの小山の安房神社も同じでしょう。あそこは毛野王国の領土内だったんだから」
「それは確かに……そんな関係で、武蔵国造の乱のときには、南武蔵の小杵(おき)が、あんな奥地にいた毛野の王様に援(たすけ)を求めに行けたわけや。もともと知り合いだったわけやな」
「そうそう、鹿島・香取の両神宮を守護していた大麻神社があったでしょう。あれもまさしく〝古代の大使館〟よね」

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「ほんまや、地図を見たら最前線にあるやんか」
「古代、倭の敵だと考えられていたような地域に、忌部は拠点を設けていたのね。蝦夷、毛野、そして出雲。古代の忌部が担っていた役割が、見えてきたじゃない」
「まあたしかに……」
出雲族と忌部は、古くからの知り合いだったことが分かるわよね。そういったことを踏まえて、大宮の氷川神社、すなわち出雲族入間川への入植を考えてみると、真相が見えてくるはずなのよ」
「なるほど、そうつながるわけか。元の話にやっと戻ってきたぞう。そやけど、そもそも何の話をしとったんか忘れてしもたやんか?」
上円下方噴という特殊な形をした古墳の話よ。さっき土門くんがいみじくも、出雲族は四角が好き、とか言っていたでしょう。あれがヒントになるのよ……」
 まな美は、謎めかしていった。

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                         さらにつづく

まな美と土門くんが喋る〝出雲国〟の古代史

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妻木晩田遺跡の数キロ西側を、日野川(ひのがわ)が流れているのね」
「え? あの八岐大蛇がおったという肥の川(ひのかわ)?」
「そういうもあるのよ。妻木晩田遺跡は最初期の出雲国なんだから、肥の川がこちらにあっても良さそうよね。けどどうしても、出雲大社側の斐伊川(ひいかわ)には負けてしまうのね」
「それこそまさしく、ろびい活動の差やな」
「この妻木晩田遺跡は、200年代の半ばあたりで人が住まなくなっていったらしく、集落としては消滅してしまうのね」
弥生時代古墳時代の、ちょうど境目やんか」
 いうと土門くんは、パソコンの画像を別のに差し替えながら、
島根県側の、本来の出雲国で四隅突出型墳丘墓が造られるようになったんは、例外的に古い青木遺跡を除くと、だいたい100年頃からやそうや。ほな説明の続きをやるんで、ででーんと、ばーじょん2を」
「どこが違うの?」
「微妙に違うんやぞう」

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「墳墓群は西と東に分かれとって、約40キロも離れとう。そやけど年代的にはほぼ同じなんで、たがいに競い合って造っとったみたいや。まん中の松江市周辺にもあるんやけど、このへんのは小さい。西にあるんが西谷(にしだに)墳墓群で、写真で見ると、せまい場所に30ほどの古墳がひしめきあっとう。うち6基が四隅突出型墳丘墓で、最大のやつはここにある」

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「東にあるんが〝古代出雲王陵の丘〟やねんけど、これは安来(やすぎ)市が、観光客誘致のためにそう呼んどうみたいや」
「まあなんてロビー活動が上手なんでしょう……妻木晩田遺跡はえらい違い……」
 まな美は、なおも呟いている。
「ここも中海(なかうみ)を見渡せる丘陵地帯で、1~2時間で見て廻れるぐらいの場所に点々と立ってるそうや。そして、この四隅突出型墳丘墓は東西ともに、奇しくも、弥生時代から古墳時代に変わるあたりで造るんを止めてしまうんやな。つまり250年ごろまでや」
卑弥呼が亡くなって倭国に内乱が起こったでしょう。それが出雲にまで波及していたのかもしれないわ」
「そやけど、お墓はもう造らへん、いうわけにはいかへんので、つぎに造ったんが〝方墳〟や。四角いお墓で、それも日本最大級のやつを、でん、でん、でん……と出雲王陵の丘に造っとう。それが大成(おおなり)古墳や造山(つくりやま)古墳で、ざっと300年代の話や。そして出雲最古の前方後円墳は、ちょうど400年ごろで、斐伊川下流にある大寺古墳がそうや。最大の前方後円墳は、西谷墳墓群の横にある今市大念寺(いまいちだいねんじ)古墳で、92メートル、500年代後半ぐらいや。そして出雲最大の古墳は、意外にも松江市にあって、山代二子塚(やましろふたごづか)古墳やねんけど、前方後方墳という変な形をしとう。前方後円墳の円のところが四角に変わっとうねん。どうやら出雲族は、四角という形が特別に好きみたいやな」
 まな美は、うんうん、と大きく頷いている。
「こっちも年代的には500年代後半ぐらいで同じや。そやけど結局は、この松江市の方に出雲の国庁が造られたんで、勢力争い的には東が勝った、いう感じやろうかな。まあざっと以上が、古墳から推察した出雲国の古代史やあ」
 まな美は、ご苦労さまとばかりに小さく拍手をしてから、画面を指さしながら、
「ここ、出雲国のど真ん中。こんな場所に忌部神戸、忌部の私有地があったのよ。すごいと思わない?」
「た……たしかに……」 

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                         さらにつづく

まな美と土門くんが喋る〝四隅突出型墳丘墓〟と〝出雲国〟の最初期

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「出雲ブランド、みたいなもんは古代にはあらへんかったやろな」
「でしょう……」
「独自形式のお墓をばんばん勝手に造っとって、倭(やまと)形式の前方後円墳に出雲がなびいたんは、せいぜい西暦400年ごろやんか。それ以前は、日本武尊(やまとたける)様に成敗されてしまう側や!」
 と、土門くんは雄々しくいった。一時期、彼には日本武尊が降臨していたことがあるのだ。
「神話のふるさとだとか神在月(かみありづき)だとかいって、ちやほやされているのは近代のロビー活動のおかげよね」
「ろ、ろびい活動……まあ確かに」
「作ってもらった、四隅突出型墳丘墓の地図、あれを出してくれる」
「あれ作るんすごい大変やったんやぞ、あれ作ってこれ作ってと姫は簡単にいうけど」
 土門くんは、ぶつくさ文句をいいながらも、
「ほな、でで~んと」

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「四隅突出型墳丘墓いうんは、この炬燵の」
 ふたりは今、奥座敷に置かれた家具調の電気炬燵に入っている。
「炬燵布団の四すみの角っこを、ぎゅーと引っ張ったような形や」
「それって、土門くんの発想?」
「いや、どっかのブログからの受け売りや」
 と、土門くんは正直に申告してから、
「その変な形の墳墓が最初に造られたんは、出雲大社から南に60キロほど離れた山あいの、三次(みよし)盆地や。20メートルぐらいのを筆頭に小さいのが10数個あって、最古のやつは約2100年前やと考えられとう。そやけど、青木遺跡のが同程度に古いということが、最近の研究で判ってきたらしく、三次盆地源流説は崩れつつあるそうや」
「その青木遺跡などの出雲市の古墳類は、大半が斐伊川(ひいかわ)沿いにあって、『古事記』では肥河、『日本書紀』では簸川、読みはヒノカワもしくはヒカワで、あの八岐大蛇(やまたのおろち)が棲んでいたとされる伝説の川ね」
 と、まな美が補足説明をはさむ。
「つぎに古いんは、意外にも東のはしっこにある、妻木晩田(むきばんだ)遺跡や。小っこいのが沢山あって、約2000年前、つまり西暦0年あたりやそうや。厳密にいうたらここは伯耆国(ほうきのくに)やねんけど、古代の出雲国は、このへんまでを含むと考えた方がええねんやろな」
 まな美は、うなずいてから、
旅行会社の案内ページなどを見ると、日本海美保湾を見渡せる丘陵地にあって、それはそれは絶景で、九州の吉野ヶ里遺跡などより、はるかに規模が大きいらしいのね。そしてここが、最初期の出雲国の中心地なんだけれど、鳥取県側にあるので、全くといっていいほど知名度はない。……土門くん知ってた?」
「や~知らへんかったぞう」
「これもロビー活動で負けてしまっているせいね」
「まあなんと可哀想は話やろ。日本で一番弱小な県の鳥取県やから、しゃーあらへんなあ」
 と、土門くんも同情ぎみに語るのだった。 

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                         さらにつづく

まな美と土門くんが喋る〝出雲玉作〟と〝みほきたま〟の謎

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「以前に〝出雲玉作の地図〟を作ってもらったでしょう、あれを出してくれる」
「あれやな、ほな、でで~ん」
 と、土門くんがパソコンの画面に出した。

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「土門くんちの骨董屋さんでは、勾玉などは扱うの?」
「神戸の本家には置いとったから触ったことはあるぞう」
 土門くんは、指でビー玉を弾くような仕草をしている。
「そやけど、翡翠(ひすい)のやつやで。縄文時代から作っとった、はるか古代の勾玉や。この花仙山で採れるんは出雲石とかゆうて、写真で見たかぎりでは濃い緑色や。翡翠は宝石として値打ちあるけど、こっちの方はどないやろか……」
 と、骨董屋の坊(ぼん)としての感想を述べる。
「この出雲玉作は、弥生時代の末あたりから作っていた、らしいわよね」
「ざっと、200年代の前半やな」
 ――弥生時代の次は古墳時代だが、境目は〝箸墓〟である(卑弥呼の没年は247年)。
「複数の文献に載っていて、古くは『出雲国風土記』に、出雲の意宇(おう)郡に忌部の神戸(かんべ)があり、すなわち私有地だと。そのことは東忌部町・西忌部町として現代の地名にも残っているわ。真ん中には忌部神社が建っていて、祭神は天太玉命ね。もちろん『古語拾遺』にも記載があって・・・・・」
 そんなまな美の解説にあわせて土門くんが、でで~ん、と画面を切り替えた。新入部員を獲得するためのプレゼン用にと、各種作ってパソコンに保存してあるのだ。

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「・・・・・玉作湯神社の祭神・櫛明玉命は、忌部五部神のひとりで出雲忌部の祖よね。作っていたのはミホキタマと呼ばれ、漢字はいろいろあるけれど、『延喜式』にもミホキタマとあって、ここ固有のブランド名なのかもしれないわよね」
「み、ほ、き、た、ま~」
 土門くんは呪文を唱えるように、なにやら詠唱している。
「地元のオンラインニュースに面白い記事を見つけたわ」
 ――山陰中央新報「悠久のくに(11)出雲の玉作りと花仙山(松江市)」2013年9月10日。
「それによると、300年代の後半に、花仙山の赤メノウを使った勾玉が、初めて作られたらしいのね。そして古墳時代の後期になると、勾玉といえば、ここの赤メノウのそれに収斂されていったそうよ」
「へー、時代とともに流行り廃りがあるんやな」
「よくぞ作ったと思う。出雲の自己主張以外の何ものでもない、と熱く語られているわ。さらにこうも書かれている。弥生時代から古墳時代、一貫して玉作りを行ったのは全国でも出雲だけ。究極の出雲ブランドこそ出雲の玉と実感できる、と……」
 まな美は、ひと呼吸おいてから訊く。
「ところで土門くん、ここで作られていた勾玉・ミホキタマは、古墳時代の当時、書かれていたように出雲が誇る、究極の出雲ブランドだったと思う?」
「ええ?……」
 土門くんは狐につままれたような顔をしてから、いった。
「な、なんと異なことを……」

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                         さらにつづく



 

まな美と土門くんが喋る〝氷川神社〟の秘密

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この地図を見ると、入間川(いるまがわ)はもう単独の川やんか、東京湾に注いどって」
「そうも見えるけれど、いちおう隅田川(すみだがわ)経由なのよね。古・隅田川って書かれているけど。それに入間川に関しては、こちらの地図の方が、たぶん正しいと思うわ。そちらは南の方は簡略化しているのよ。多摩川も描かれてないし」
「この、豊島駅、いうんはなんや?」
「古代の東海道の道の駅ね。上野の谷中(やなか)霊園あたりだったと推測されているわ」
「知っとうぞう、上野公園の北やんか」
 土門くんの父親が経営する骨董店は上野広小路にあるので彼も付近の地理には詳しい。
「そやったら、古代の忌部の湊が分かるぞう。おとりさんは、ここや!」
 と、土門くんが地図に書き込んだ。

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「この地図では、わたしはそもそも氷川大宮のことに思いを巡らしていたのよ」
 いうとまな美も、地図に赤丸を付けた。
「そんなとこにあったんか、氷川神社は」
「つまり出雲族って、古代の入間川に入植したのでは、と考えられるのね」
「なるほど、あっちの地図を重ねると、そないなるな」
 あっちの地図とは、西角井正慶の神社分布図である。

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出雲族が入植して最初に造るのは、地域のシンボルとなる神殿。つまり大宮の氷川神社よね。そして次に造ったのは」
「お墓やあ」
 と、まな美の説明を横取りして土門くんがいった。
「じゃあそのお墓だけど、どのあたりに造ったと思う?」
 まな美が、ちょっと意地悪そうに訊いてきた。
「え~……大國魂神社の場合は、多摩川に入ってから少し行くと川がかくんと曲がっとって、その崖の上やろう、古墳は目立つとこに建てるいうんがせおりーやからなあ……」
 土門くんは、まな美の顔色をうかがいながら、ねちねちと喋る。
「そやけど、たぶんここは違うんやろなあ……」
「そうよ、入間川下流域は湿地帯だから古墳は造れないの」
 まな美は、さっさと結論をいう。
「思い出した思い出した。家康が江戸城に入った頃ですら、あたりはどろどろべちゃべちゃで、人は住まれへんかったんやあ」
「だから古墳も、入間川中流から上流域に造らざるを得なかったはずなのね」
「ほな、検索してみよか……入間川、古墳……おっ、けっこうたくさん出てきたぞう」
「……そこと、……これと、……それもね」
 と、まな美にあれこれ指示されて、土門くんがグーグル地図に書き込んだ。

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「三変(さんぺん)稲荷神社古墳が、この地域では最古の古墳なのね。とはいっても、400年頃か、せいぜい300年代末あたりの、それも四角い形をした〝方墳〟で、約25メートルと小さい。前方後円墳が現れるのは500年を過ぎてからのようで、最大のが舟塚古墳と牛塚古墳だけど、50メートル弱で、さほど大きくはない。ともに600年頃の築造。入間川のコの字のあたりが、いわゆる古墳銀座で、地図には出てないけど沢山あるのね。けど大半が円墳で、いずれも小さくて、そして最後の最後に、680年頃に、山王塚古墳という特大の上円下方噴が造られたの。……以上が、大雑把な説明よ」
 土門くんは、ふんふんと頷いてから、
「するとやな、このへんの古墳が、入植してきた出雲族のお墓と考えてええわけやな?」
「わたしは単純にそう考えているんだけれど、一般的には考えないみたいね」
「な、なんでや?」
「だってバレてしまうじゃない。氷川神社の縁起や創建年が嘘だって」
「は、は、は、は、は、は、は……」
 土門くんは大声で笑う。

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                         さらにつづく


まな美と土門くんが喋る〝小見の台地〟と〝星川〟の秘密

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 まな美は、ネットで拾ってきた地図をプリントアウトしたそれを眺めながら、うーん、と小首をかしげている。

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「なんやそれ?」
 横からのぞき込みながら土門くんがいった。
「想定1000年前の関東平野の水脈地図……なんだけど、私たちが欲しいのって、さらに1千年ほど古い地図でしょう」
「そやったら、確かあったぞう」
 いうと土門くんは、炬燵の天板に積まれてあった書籍類から薄っぺらい一冊を引きずり出して、ぺらぺら頁をめくると、まな美に差し出した。
「これやこれや」

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 「それって、なんだか良くわからないのよね……」
 まな美は不満げに口をとがらせている。
「ふふ、姫の弱点は地図やあ」
 と、土門くんは小声で揶揄してから、
「ほな教えたげるから、ここに書き込んでもええかあ?」
「ダメに決まってるでしょう」
 と、まな美に叱られ、しゃあらへんなあ、とぼやきながらも炬燵から這い出して、背後の床の間に置かれているスキャナーを使って紙にプリントアウトしてから再び炬燵に戻ってきた。ここは古色蒼然とした書院造りの奥の間だが、そこを歴史部の第二部室に使っているのだ。
 土門くんは、しばし黙々とあれこれ書き込みをしてから、それを使って説明を始めた。

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「この端っこにあるんが〝星川〟や。古代には日本全国ここにしからあらへんという希有な名前の川や」
「それは分かるんだけど……」
「川と川のあいだが微妙に空いてるやんか。ここが小見(おみ)の台地で、元来星川はここに突き当たって南へ流れてて、さきたま古墳群の西側を通っとったんを、この台地を削って川をつないだいう話が、この本には載っとったわけや。『星川は、六世紀後半には小見台地を開削し新星川へ瀬替えされた』と断定的に書かれとったから、よっぽど確かな話なんやろう」
 ――著者の澤口宏は群馬県地理学会長だ。
「その、新星川、というのは?」
「それは確かに分かりづらい話で。これは別のとこに書かれとって、『以前の川筋を新星川と仮称する』と。つまり本で説明するための仮の名や。君の名はぁ」
 土門くんは、ちょっとボケてから、
「新星川が実際にあるんで話はさらにややこしい。地図よりも西側の源流域を、現代では新星川と呼んどうそうや。そやけど、古代には新もへったくれもあらへん。こうやって川をつないで、全体を〝星川〟と呼んどったはずや。それすなわち〝天の川〟を地上に模したわけやろう? な、なんともはや、なんと雄大な話やろか」
 まな美も頷いてから、
「すると、この赤い丸は、紫微垣(しびえん)の古墳よね」
「そや、小見真観寺古墳(おみしんかんじこふん)と真名板高山古墳(まないたたかやまこふん)で、りゅう座73番星と、きりん座43番星やあ」
「……ようやく分かったわあ」
 まな美は、パチパチと手を叩いている。

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                         つづく

 

川越市の上円下方噴〝山王塚古墳〟の謎

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 山王塚古墳は、さきたま古墳群と大國魂神社の、ほぼ真ん中に位置するのだ。だが東経 139.4790 度線は、さすがに貫いてはいない。
 川越市教育委員会発行の「山王塚古墳発掘調査見学会資料」のpdfによると、入間川の右岸に、南大塚古墳群と呼ばれる古墳群が約3キロに渡って点在し、消滅した古墳も多いが現在27基が確認されており、大半が小さな円墳で、400年代前半から600年代末あたりの古墳だ。その最後に築造されたのが山王塚古墳なのだ。特異な上円下方墳で、しかも突出して巨大で、下方部の一辺63メートル、上円部径47メートル、高さ5メートルだ。体積比で熊野神社古墳の約4倍である。
 入間川の左岸にも古墳群があって、同様に大半は小円墳だが、その主峰が地図に示した牛塚古墳で、これが入間川流域では最大の前方後円墳だ(とはいっても50メートル弱で、600年頃の築造)。

 また、南大塚古墳に関しては、興味深い話が川越市役所のホームページに紹介されている。

www.city.kawagoe.saitama.jp

出土した埴輪について 今回の調査で出土した埴輪の破片は円筒埴輪のものがほとんどであり、その大部分は鴻巣市生出塚埴輪窯跡(おいねづかはにわかまあと)で焼かれたものでした。ここの埴輪は鉄分の多い赤茶けた色が特徴で、行田市の埼玉古墳群などを始め県内の多くの古墳に供給され、川越市周辺で見つかる埴輪の大部分が生出塚産です。」

  つまりずーっと以前から、ここは忌部の「お墓ビジネス」の上得意先だったわけなのだ。
 上の地図を再度見ていただこう。荒川の分岐点が示されているが、ここを西に入れば入間川で、本流を北へさかのぼっていけば鴻巣市の生出塚埴輪窯だ(ただし、これは現代の川筋で古代のそれは定かではない)。いずれにせよ、南武蔵 ⇔ 北武蔵間の頻繁に使っている水路から、ちょっと寄り道をすれば、ここに辿り着けたのだろう。

 けれども、生出塚埴輪窯は600年代初頭あたりで生産を止めてしまうのだ。大型古墳が造られなくなっていき需要が無くなるからだ。そこから(埴輪の取引がなくなってから)7~80年も経ってから、突如、上円下方墳という特異な墳形を拝借して本家の4倍もの大型古墳〝山王塚古墳〟を築造するとは、いったいどんな経緯だったのだろう?

 この川越付近も忌部の領地だったのだろうか。いや、それは考えにくい。
 倭(やまと)ですら、奈良盆地の南の端っこでちまちまやっていた時代なのだ。実際、多摩川以南の南武蔵だけで当時の倭より広いからだ。ためしに、南武蔵に大和三山を置いてみると、こうなる。

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  また、例の西角井正慶の〝神社分布図〟からは、川越や入間川流域は「氷川神社群」内であったことが分かるだろう。すなわち出雲族であり、忌部とは人種がちがうのだ。両者は、どんな間柄だったのだろうか……?

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  歴史部の面々が、なにやらひらめいたようである。
 次は、まな美と土門くんの話に耳を傾けてみることにしよう。

 

 

武蔵府中熊野神社古墳の〝上円下方噴〟の謎

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 武蔵府中熊野神社古墳は、大國魂神社国府地)から西へ2キロほどの場所にあって、関係しそうな所在地をプロットしたのが上の地図だ。
 ここは特殊な形状をした日本最古の上円下方噴(じょうえんかほうふん)で、650年頃の築造だ。裏を返せば、真新しい古墳形式を創出したわけだ(忌部が)。
 実は、大國魂神社から東へ6キロほどの場所に天文台構内古墳(てんもんだいこうないこふん)という同形式の古墳が存在する。三鷹市教育委員会発行のpdfによると、660年前後の須恵器が出土したそうで、つまり熊野神社古墳の次に築造されたらしいのだ。墳丘は、熊野神社古墳が1辺32メートル、天文台構内古墳が同30メートルと大きく、その特殊な形状から2基は首長墓と考えられている。要するに、南武蔵に出戻ってきた忌部(笠原)の王族たちのお墓である。

 熊野神社古墳展示館にあった説明パネルを(『神神の契約』でも紹介したが小さすぎて文字が読めなかったので)あらためて写真で示そう。 

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 高度な土木技術で√2などを使っていて七曜文(七星文)みたいなオーパーツ的な先進文化を誇っている遺跡が、なぜ、このような東国の片田舎にあったのか従来謎とされてきたのだ。

 『神神の契約』を読破された方なら謎は解けたと思われるが、すなわち高度な文明を誇る〝宇宙人〟のごとき一族が、ここに君臨していたからなのだ。

 

 実は、近年、非常に大きな上円下方噴が発見されていて、埼玉県の川越市にあるのだ。はてさて、どんな関係だったのだろうか? 次はこの話だ。 

 

忌部が創建した都筑区茅ケ崎の杉山神社

 40社ほどもある杉山神社の中で、みずから〝忌部〟創建を標榜している神社が一社ある。横浜市都筑区茅ケ崎にある杉山神社だ(湘南海岸沿いの、いわゆる〝茅ヶ崎〟とは別)。
 紅葉葵さんのブログ「たんぽぽろぐ」に詳しい探訪記事が載っている。

momijiaoi.net

  だが残念なことに、ここ茅ケ崎杉山神社の由緒は、完全に裏目に出てしまっているのだ。
 『新編武蔵風土記稿』などによると、天武天皇白鳳3年(674年)、安房神社神主の忌部勝麻呂によって、この地に高御座巣日太命(タカムスビで造化三神のひとり)、天日和志命(アメノヒワシで阿波忌部の祖神)、由布津主命(ユフツヌシで天太玉命の孫の天富命の孫)の三神を祀ったのが最初とされている。
 この由緒は(その真贋はさておき)、式内社を我がものにすべく「どうだ古いだろう」「由緒正しいだろう」と自信満々に表明したものなのだろうが、はからずも「新しい」ことを証明してしまったわけだ。
 杉山神社は『神神の契約』本文で解説したが、2種類に大別され、南武蔵に入植した直後に展開したそれと、北武蔵から出戻ってきた後に作ったそれだ。674年という創建年は、650年頃築造の熊野神社古噴よりも後年で、つまり南武蔵へ出戻った後に作られた神社だったのである。残念・・・・・。

〝大鷲神社〟の「鷲」の秘密

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 大國魂神社・拝殿の右手(東)側に、素木造りの小さな社殿がある。住吉神社と大鷲(おおとり)神社の合同社だ。住吉神社はさておき、問題は大鷲神社である。案内板には次のように記されている。

 祭神 大鷲大神(おおとりのおおかみ)。
 例祭 十一月酉の日。
 大鷲神社の御本社は大阪府堺市大鳥神社でその御分霊をまつっている。もとは武運を守護する神として信仰されたが、現在では〝おとりさま〟と称され開運の神、商売繁盛の神として信仰があつい。毎年十一月の酉の日には、熊手の酉の市として親しまれている。

 白字であらわした箇所、これは間違いだろうか。

 説明板にある堺市の「大鳥神社」とは、式内社名神大社和泉国一ノ宮・境内地約1万5千坪、全国にある大鳥神社・大鳥信仰の総本山で、本殿は大鳥造りと呼ばれ出雲大社造りに次ぐ古い形式を保っており、その公式紹介ビデオがこちら。祭神は2柱で、日本武尊ヤマトタケルノミコト)と大鳥連祖神(おおとりのむらじおやがみ)だ。
 元は大鳥連という古代豪族の祖神を祀っていたが、日本武尊信仰が習合したと考えられている。日本武尊伊吹山で毒霧にさらされて亡くなったが、白鳥となって当地に降り立ったという伝承だ。ところで、こちらには一切 「鷲」 など登場してこないのだ。

 

  「鷲」の字を使った〝大鷲神社〟は意外と少なく、宗教法人としては全国に7社しかない。しかも、すべて東国(関東圏)に集中しているのだ。では、その個々を調べてみよう。
 ★大鷲(おおわし)神社(茨城県つくば市)祭神は日本武尊。元は地元の旧家中島氏(小田一族の武士)の氏神であったと伝えられ、11月初酉の日に隣村より神主を迎え、奥の院を開いて祭礼が行われ、藁で大きな大蛇の形を作り、神社の鳥居に巻きつけるそうだ。大鷲=大鳥の連想から、後年、祭神を日本武尊にされたのだろう。
 ★大鷲(おおわし)神社(千葉県市川市)祭神は日本武尊。小社で由来などは不詳。
 ★大鷲(おおわし)神社(千葉県市原市柳原)祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)。
  鷲(わし)神社が近隣(同市原市今津朝山)にあって、祭神は天日鷲命日本武尊だ。
 ★大鷲(おおわし)神社(千葉県成田市北羽鳥)祭神は天日鷲之命(あめのひわしのみこと)で、船山俊彦さんのブログ「成田に吹く風」に詳しい探訪記事が載っている。
 ★大鷲(おおわし)神社(千葉県印旛郡栄町安食)祭神は天乃日鷲命(あめのひわしのみこと)+日本武尊
 ★大鷲(おおわし)神社(千葉県印旛郡酒々井町)祭神は天日鷲命で、古墳(300年代の円墳)の上に建っている。ブログ「怠け者の散歩道」の探訪記事によると、中国由来の珍しい「石枕」が出土しているそうだ。
 ★大鷲(おおとり)神社(東京都足立区花畑)祭神は日本武尊源義光後三年の役のおり、この地で戦勝を祈願した際に見かけた「鷲」を祀ったのが神社の縁起であるという。古くは鷲明神と称されていたが、明治以降、鷲神社と改められ、のち大鷲神社を正式名称とした。祭神の日本武尊は明治の神仏判然令のさい、そう定められた。ゆえ江戸時代以前の祭神は不詳で、しいて言うなら「鷲」だろうか。また、自称「酉の市」発祥の神社であり、社殿の向拝柱に彫られたは「昇り龍・降り龍」は荘厳で、左甚五郎13代目後藤与五郎の作だそうである。

 

 以上ざっと見てわかるように、大鷲神社は「おおとり」ではなく「おおわし」と読むべきで、祭神は天日鷲命天日鷲之命天乃日鷲命だ。漢字は微妙に違うが、ご存じ〝忌部五部神〟のひとり、阿波忌部の祖神に他ならない。東国はおもに〝忌部〟が開拓していたので、そっち系の神社で、堺市大鳥神社とは関係性は無いのだ。これら大鷲神社の総本山は、古代の忌部の湊であった浅草の鷲(おおとり)神社とすべきだろうか。
 「寄らば大樹の陰」思想
 有名な大神社や知られた大神様に紐付けしてしまう、往々にして神道関係者がおちいる悪い癖である。これは神様にとっては、ありがた迷惑な話で、無関係なのに関係づけられて、喜ぶ神様はおられないだろう。

 

 ここ大國魂神社でも勿論「酉の市」が開催され、江戸三大酉の市(もしくは関東三大酉の市)に数えられている。他は花園神社(新宿)と鷲神社(浅草)だが、もう目茶苦茶に混雑する。店先で不用意に立ち止まっていると叱られるぐらいに。そのてん大國魂神社は境内が広いので、まったり楽しみたい方にはおすすめだ。

 

金比羅神社の惨劇

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 このお堂は文化十三年(1816年)の改修だそうで、つまり200年以上も経っており、遠目にはそこそこ見られても拡大すると見すぼらしさが際立つ。扉の小窓は宮乃咩神社の旧社殿と同じく宝珠窓だったのでは、とも想像されるが、修理が追いつかずにああなったのだろうか。
 ところが、近年、さらなる惨劇がこの金比羅神社を襲うのだ。

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 平成29年4月30日、大國魂神社からここへと通じる頑丈な扉が、一方的に閉鎖(終日施錠)されてしまったのである。告知紙に「神社西参道の竣工に伴い」とあるのは写真の真新しい巨大鳥居のことで、こんなものに大金を投じるぐらいだったら金比羅神社を助けてやれよ(と筆者は思うのだが)、神社の考え方はむしろ真逆のようで、ええい目障りな金比羅神社め、扉を締めてやったぞ、これで参詣客は流れて行けまい、つぶれてしまえ!……

 

 本家讃岐の金刀比羅宮では〝金比羅〟は一切祀られていない。明治の神仏判然令で自ら完全に破棄したからだ。
 忌部系の大神様の神社には原則金比羅がつき従っているが、ここ以外は境内社だ。つまり単独の金比羅神社で、実際に金比羅が祀られている日本最古の神社の可能性が、この金比羅神社にはあるというのに(忌部が関係すると日本最古の話が多い)。

 

 

大國魂神社の〝裏の七不思議〟

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大國魂神社の拝殿の紙垂は、世にも珍しい「鏡折り」になっている。

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本殿の狛犬阿・吽が左右で、紙垂も「鏡折り」である。

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本殿の屋根飾りからは、祭神は女神様が示唆される。

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大銀杏の御神木は本殿裏のさびしい場所にあり、表の七不思議で根がほじくり返されている。

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拝殿に 「総社六所宮」 という扁額をかかげながら祭神は九柱だ。

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祭神は九柱なのに神輿は八基しかなく、うち一基にだけ珍しい「」の飾りが付いている。

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大銀杏裏の鎮守の森の南の端っこの崖上(ハケ)に「金比羅神社」が立っている。

 

日本最古のお祭り〝くらやみ祭〟

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 大國魂神社は西暦500頃から「南斗」だったので(さきたま古墳群が「北斗」)、東京都指定無形民俗文化財武蔵国国府祭・大國魂神社例大祭くらやみ祭〟は、プリミティブな北辰祭と言えるだろう。本来、北辰祭は「南斗」でやる決まりだからだ。そもそも「南斗」は、祭りだあ祭りだあ、と飲めや唄えの乱痴気騒ぎをやるために設定された場所で、またそうすることによって南斗の神様は喜んでくれて彼らの寿命を延ばしてくれる、とそんな信仰だからである。
 南武蔵の最初期の「南斗」だった岸谷杉山神社は300年頃、阿波の若杉山遺跡の「南斗」は200年代初頭で、もちろん同一氏族が関与していて〝日本最古の祭り〟なのである。

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「南斗は匙(さじ)の形をした食物のいれものであり、食器としての南斗は神饌の中継者である」と、日本の民俗学の権威・吉野裕子(1916~2008年)は説く。
 大國魂神社は、拝殿・本殿ともに真北を向いていて、もちろん参道も真北を向いている。そこで催されるくらやみ祭の様々な狂宴は、大音響の太鼓も、屋台での飲み食いも、お化け屋敷ですらも、北斗に手向けられた神聖な貢ぎ物なのである。

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