頼朝が創出した鎌倉には、基軸が二つある。
一つは、鎌倉のメインストリート兼参道の若宮大路だが、約1・8キロの真っ直ぐな道路で北端に鶴岡八幡宮が置かれた。ただし、この基軸は東に27度ほど傾いており、町全体が(鶴岡八幡宮の社殿なども)同様の傾きで造られている。
もう一つは、大蔵御所の周辺道路で、こちらは傾きはなく東西南北に合致している。
グーグル地図へのリンクはレトロな煙草屋さんの四つ辻だが、右手は清泉小学校、その角っこに「大蔵幕府旧蹟」の碑があり、北へいくと頼朝公のお墓で、つまり大蔵御所のほぼ中心点だ。
ここを基点にして鬼門(すなわち東北)の方向―――
鶴岡八幡宮から見て鬼門の方向(27度傾いているがそれを真北とみなして)―――
これら二つのラインが重なるような場所があって、そこに永福寺が建てられたのだ。建立の理由は、義経や奥州藤原氏らの怨霊を鎮めるためと『吾妻鏡』に明記されており、すなわち鬼門守護だが、御所と氏神の八幡宮、鎌倉の最重要な2箇所を鬼(怨霊)から護ろうと、巧みな設計思想に基づいていたのである。
だがしかし・・・・・・・
鬼門守護というと、京都御所を護る赤山禅院の赤山明神(=泰山府君)のように、冥界の大神様をでーんとすえて鬼を防ごう(鬼を蹴散らそう)と考えるのが通例だが、案内板にあった復元想像CG(湘南工科大学作成)などを見るに、かなり雰囲気がちがう。
中心となる二階堂は、本尊は釈迦如来だったと推測され、両脇は阿弥陀堂と薬師堂で、いずれの本尊も冥界神ではない。
永福寺では一切経供養や万灯会などの法要が盛んに修せられたそうだ。のみならず、浄土庭園ふうの境内では、花見や月見や蹴鞠など、雅な催しも行われていたと『吾妻鏡』にあるのだ。
ここは、平泉の無量光院(奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の建立)をモデルにしたと考えられている。
建物はコの字に配置され、背後は山だ。
大挙して押しかけてきた鬼たちは、ここで一寸、足止めを食うのだ。
どこか懐かしい景色で、故郷の平泉を彷彿とさせる。
それに花見や月見や蹴鞠などをやっていて、いかにも桃源郷だ。
鬼の皆様方、なごんで下さいませ、怒りの矛先をおさめてどうぞ長逗留して下さい、ここは極楽浄土でごさいますよ。とそんな発想をもとに永福寺は建造されてあったのだ。
甘いぞ頼朝・・・・・
そんなおためごかしが義経の怨霊に通用するはずがなく、
頼朝は落馬死、頼家は入浴中に殺害、その子の公暁が実朝を暗殺し、源氏3代わずか30年で滅ぶのだ。