【神神の契約】釈 

西風隆介による公式の謎本  

洲崎神社の〝房州石〟

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  洲崎神社は、房総半島の西の岬の突端に位置し、延喜式神名帳に載る〝后神天比理乃咩命神社〟でございますと艶やかな石の案内板に刻まれてはいるが、ここは元来その遙拝所で、后神天比理乃咩命神社の本宮は文永十年(1273年)に焼失してしまって現存しない。
 だが、ラピタの研究者から「日本にあるという〝ヒリ神殿〟はどこですか?」と尋ねられれば、「ここ」と答えるしかないだろう。
 随神門は、どこか南国の風情がただよい(安房は実際南国で蝶の越冬地として知られる)、150段ほどの厄払坂を登ると、御手洗山(みたらしやま)の中腹に社殿がある。 写真は本殿のそれだが、江戸時代初期の建物だそうで、かせた色合いで独特の風情がある(願わくば真っ赤に塗り直していただきたくは、無い)。

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  社殿の右手側には、山崖にそって境内社が立ち並んでいて、危なっかしい石段を登ると正面に小さな社があり、その基壇あたりの土留めをしていた石を見てみると、穴ぼこがいっぱい空いているではないか。すなわち〝房州石〟だ。
 小説『竜の源・新羅』では、ここで土門くんがずっこけて、土留めの石を崩してしまったことになっている現場だ。
 だが冷静に考えてみると、奇妙だ。房州石のような軽い石(しかも小さなそれ)を土留めに使うこと自体、理にかなっていないからだ。
 実は、この正面に見ている小さな社は〝金比羅神社〟なのである。

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 手前にある長宮には5柱が祀られているが、金比羅は単独で、特別扱いなことが分かるだろう。『神神の契約』本文で説明したが、忌部の大神様には原則〝金比羅〟がつき従っている。金比羅はヴァーハナ(神の乗り物)で、三嶋大明神の化身であり、忌部の神々が乗る〝三嶋の船〟だからだ。周囲に転がっていた小さな房州石は、三嶋の船が運んでいたそれの名残なのかもしれない。

さきたま古墳群の〝房州石〟

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 将軍山古墳(さきたま古墳群で8番目の築造)は半壊だったため、修復のおりに中を展示館とし、玄室(横穴式石室)の様子などが再現されている。その壁面に用いられていた石材が〝房州石〟だ。
 だが房州石とはいっても、鋸山(のこぎりやま)から切り出された独特のハケ模様がある、家の外塀や建材などに多用されたそれ(現在は採石されていない)ではなく、いわゆる〝転石〟で、鋸山の前にある海、東京湾に面した金谷海岸に「転がっていた石」である。
 実物が館内に展示されていて、ひと抱えほどある大きな房州石だが、持ってみると、拍子抜けするほどに、軽い。石に穿孔貝(孔〈あな〉を穿〈うが〉つ貝)が棲みつき、穴ぼこだらけにしているからだ。軽くて運びやすく加工しやすい石で、そういうのを選んで採ってきているのだ。
 金谷海岸とさきたま古墳群は、100キロ以上はゆうに離れているが、もちろん船運だ(東京湾内は三嶋の船を使ったかもしれない)。 
 玄室の壁は房州石だが、天井には長瀞(ながとろ)産の緑泥片岩が用いられている。渓谷のライン下りで有名な長瀞は、さきたま古墳群から西に30キロほど離れている。こちらも荒川を遡っていけば着け、同様に船運だ。
 忌部が四国の阿波でお墓ビジネスで売りさばいていた〝阿波の青石〟も、同じく緑泥片岩なので、さきたま古墳群を丹念に探せば、混ざり込んでいる可能性なきにしもあらずだろうか。


 房州石は安房でも使われているのだ。
 たとえば、后神天比理乃咩命を祀る洲崎神社などで。

鎌倉の鬼門守護「永福寺」の秘密

 頼朝が創出した鎌倉には、基軸が二つある。
 一つは、鎌倉のメインストリート兼参道の若宮大路だが、約1・8キロの真っ直ぐな道路で北端に鶴岡八幡宮が置かれた。ただし、この基軸は東に27度ほど傾いており、町全体が(鶴岡八幡宮の社殿なども)同様の傾きで造られている。
 もう一つは、大蔵御所の周辺道路で、こちらは傾きはなく東西南北に合致している。f:id:NARAI:20210127133053j:plainf:id:NARAI:20210127133141j:plain

 グーグル地図へのリンクはレトロな煙草屋さんの四つ辻だが、右手は清泉小学校、その角っこに「大蔵幕府旧蹟」の碑があり、北へいくと頼朝公のお墓で、つまり大蔵御所のほぼ中心点だ。
 ここを基点にして鬼門(すなわち東北)の方向―――
 鶴岡八幡宮から見て鬼門の方向(27度傾いているがそれを真北とみなして)―――
 これら二つのラインが重なるような場所があって、そこに永福寺が建てられたのだ。建立の理由は、義経奥州藤原氏らの怨霊を鎮めるためと『吾妻鏡』に明記されており、すなわち鬼門守護だが、御所と氏神八幡宮、鎌倉の最重要な2箇所を鬼(怨霊)から護ろうと、巧みな設計思想に基づいていたのである。

 だがしかし・・・・・・・

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 鬼門守護というと、京都御所を護る赤山禅院の赤山明神(=泰山府君)のように、冥界の大神様をでーんとすえて鬼を防ごう(鬼を蹴散らそう)と考えるのが通例だが、案内板にあった復元想像CG(湘南工科大学作成)などを見るに、かなり雰囲気がちがう。
 中心となる二階堂は、本尊は釈迦如来だったと推測され、両脇は阿弥陀堂と薬師堂で、いずれの本尊も冥界神ではない。
 永福寺では一切経供養や万灯会などの法要が盛んに修せられたそうだ。のみならず、浄土庭園ふうの境内では、花見や月見や蹴鞠など、雅な催しも行われていたと『吾妻鏡』にあるのだ。
 ここは、平泉の無量光院(奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の建立)をモデルにしたと考えられている。
 建物はコの字に配置され、背後は山だ。
 大挙して押しかけてきた鬼たちは、ここで一寸、足止めを食うのだ。
 どこか懐かしい景色で、故郷の平泉を彷彿とさせる。
 それに花見や月見や蹴鞠などをやっていて、いかにも桃源郷だ。
 鬼の皆様方、なごんで下さいませ、怒りの矛先をおさめてどうぞ長逗留して下さい、ここは極楽浄土でごさいますよ。とそんな発想をもとに永福寺は建造されてあったのだ。

 甘いぞ頼朝・・・・・

 そんなおためごかし義経の怨霊に通用するはずがなく、

 頼朝は落馬死、頼家は入浴中に殺害、その子の公暁が実朝を暗殺し、源氏3代わずか30年で滅ぶのだ。

 

二重星ミザールとアルコル 鉄砲山古墳と奥の山古墳

まことに恐縮ですが本文訂正です。この写真「386ページ下段写真」の説明文。 f:id:NARAI:20210126004549j:plain

《鉄砲山古墳》 は間違いで 《奥の山古墳》 が正解です(増刷のさいに訂正予定)。

つまりこの古墳は二重星の小さい方=アルコル・輔星で、冥界の大神様「泰山府君」が降臨したもの。

2006年の撮影ですが、すごい秘境感で、周濠に落っこちればそのまま行方知れず、て感じでした。

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ほぼ同じ場所から撮影した2020年の写真。

周濠は埋められてしまって、ありません。

奥に見えている小山が 《鉄砲山古墳》 主星のミザールの方で、近接しているのが分かるでしょうか。

 

 

 

丸墓山古墳に呪われた武将

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 この丸墓山古墳は、大河ドラマなどの常連で、みなさん何度となく見ているはずです。
 日本最大の〝円墳〟で、まん丸のはずなんですが、遠目に見ると頂上部が平らなことが分かります。
 誰かに削られたのでは、とも考えられており、その犯人と目される第一容疑者が、彼です。
 

 ――― 石田三成

 

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 丸墓山古墳から約2・4キロ離れて忍城があり、古墳に登ると城が見えます(近年再建のコンクリート製)。良く知られた〝水攻め〟をやったわけですが、忍城は陥落せず、あたりを水浸し(泥だらけ)にしただけで、そのさい石田三成は、ここ丸墓山古墳の頂上部に陣をはり、けっこう長逗留したので、すごしやすいよう平らに削ったのでは、と推測されています。


 彼が知らぬこととはいえ、丸墓山古墳は日本で最高位の古墳で、すなわち「」ですよね。
 そんなの削ってタダですむわけがない。
 しかも古墳の築造者は、古代世界きっての呪詛(のろい)の専門家です。

 

 石田三成の最後は哀れで、三条河原で、晒し首。

 

『神神の契約』釈 西風隆介

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 ここは『神神の契約 古墳と北斗七星に秘められた真実』の、いわば公式の謎本で、西風隆介みずからが綴っています。
 当初は上下巻を想定し(プロローグ其の一は下巻、プロローグ其の二は上巻のそれ)1・5倍ほどの分量があったのを切り刻んで現在の姿にしており、割愛した箇所をこちらに、また本文の写真はモノクロですが、あらためてカラー写真をこちらに、それと続編に相当するような話も、こちらで書こうかと考えています。

  ブログタイトルのは、弘法大師伝教大師の仲違いの原因となった『理趣経』の解釈本『理趣経』に準えたもので、それが原因で、かの〝摩多羅神〟を慈覺大師が創出せざるをえなくなったわけですが、その種の話はいずれまた。 

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  月刊「ムー」2月号にダイジェスト記事が掲載されており「ムーPLUS」で読むことができます。今後「ムー」で興味深い記事があれば、こちらでも紹介する予定です。