【神神の契約】釈 

西風隆介による公式の謎本  

「枌楡」と「南斗」と「神の社」

 杉山神社は、最も古い表記では、枌山神社だ。この「枌」という漢字は、スギと読めなくもないのだが、本来は(中国側の字義では)ニレの木である。

 さて「枌」を検索すると即座に出てくる熟語(故事)がある。それが「枌楡」だ。フンユと読み、楡も同じくニレの木である。その意味はというと――

『精選版 日本国語大辞典』によれば、
(漢の高祖が郷里から都に移して父の心を慰めた社の名とその祭神がこの木であるところから) やしろ。神社。神域。転じて、上皇の御所。また、故郷。

デジタル大辞泉』によると、
 《漢の高祖が、故郷の社にあったニレの木を都に移し、神としてまつったところから》神聖な場所。神社。転じて、故郷。

 ――とまあ似たような説明だが、ここでの注意点は、

①「神社」といった用語は、古代の中国には《無い》ということなのだ。だから日本側による追加の説明だ。それにそもそも、神様の概念そのものが中国と日本では違っていたのだ。

②「漢の高祖」とは、劉邦のことである。四面楚歌でおなじみの楚の国の項羽に勝利して、B.C.201年、統一国家の漢を建国した中国古代の英雄だ。その劉邦が建造したのが「漢の長安城」で、これは元祖「北斗・南斗信仰」に基づいた都だが、忌部は、この造りや信仰を、そっくり踏襲していたのである。いうならば、忌部は《漢マニア》だ。家康は《鎌倉マニア》で、頼朝は《京マニア》だったように。
 漢マニアの忌部にとって、「枌楡」ほど興味をそそられる故事はない。何たって「漢の高祖」が関係していたし、是が非ともこの枌楡を実践し、真似ようとしていたと考えられるのだ。
 では古代の当時、忌部は、どのような段取りでそれを実行に移したのか、それを推理してみた。

 忌部は、A.D.300年のすこし前あたりに、武蔵の多摩川沿いに入植した。そのさいに故郷の聖地にあった神木(の苗木)を持参したのだと想像される。だがニレは北方の木で、故郷の阿波の国にはない(当時の大和国にはない)。忌部は、三嶋の船を使って中国へは度々訪れていたはずなので、枌楡が、何の木を意味するのかは知っていたと想像される。だが日本側には無いので、別の木を身代わりに用いたのだろう。それが「スギの木」だったのである。

 では、どこのスギの木なのか?

 候補地は幾つか考えられるが、真っ先に思い浮かぶのは、若杉山遺跡のそれだろうか。ここは阿波最古の王様の墳墓・萩原2号墓の真南(ともに東経134・5219にあり約30キロ離れている)にあって、A.D.200年ごろからの「南斗」の祭祀場だ。
 若杉山の近隣に若杉谷や若杉谷川などもあって、古代からの地名だったと推測される。だが、若杉山の「若」という漢字には、引っかかりを感じる。「若」があるのなら「老」もあったはずで、つまりスギの木が関係した、より古い聖地があったのではと想像されるのだ。考えられる候補地は、次の2箇所である。

大麻比古神社大麻山

 四国最古(おそらく日本最古)の神社で、再々説明してきた『古事記』原文7行目のオオトノヂが原初の祭神だ。だが古代の当時、ここは神の社でなく、男王が居城する宮殿だったと想像される。女王(巫女)はオオトノベで、そちらの宮殿は、約15キロ離れて、ほぼ真南にあった。
 大麻山は、標高538メートル東西13キロほどの大きな山で、徳島平野の北側に聳えていて、大麻比古神社をはじめ萩原2号墓などの歴代の王墓は、この裾野にある。いわゆる聖山なので、開発はされていない(ようである)。観光案内等によると、「山頂付近は昼も暗い自然林」だそうで、そこに大麻比古神社の奥宮・峯神社が鎮座している。その近隣に「天然記念物・大麻山峯神社の大杉(合体木)」が立っているそうだが、「推定樹齢は約300年以上とみられる」とあって、それほど古い木ではない。それに古代の当時、大麻山全域でスギの木が優勢だったかどうかは、定かではない。

上一宮大粟神社と神山杉

古事記』によると、イザナギイザナミが結婚して「国生み」のさい、まず淡路島が生まれ、つぎに伊予之二名島(いよのふたなのしま=四国)を生んだ。その島は身体は一つで顔が4つ、それぞれの顔に名前があって、伊予国をエヒメといい、讃岐国をイヨリヒコといい、阿波国オオゲツヒメといい(以下略)。
 このオオゲツヒメ(大宜都比売)を祀っているのが上一宮大粟神社で、すなわち阿波国創世の地というわけだ。なので我こそが一宮だと主張しており、上・一宮・大などと神社名が飾られている。だが一宮は、先の大麻比古神社だと決着している(イザナギイザナミよりも古いオオトノヂだし)。

 神上一宮大粟神社徳島県名西郡神山町と呼ばれる山間部にあって、ブランド木・神山杉の産地である。けどこれは近代の話だろうし、ここには忌部系の祭神は祀られておらず、近隣に忌部関連の神社も無く、それに『古語拾遺』にも一切言及は無いので、忌部がここを聖地とみなしていた、かは疑問だ。

 なので結論、十中八九①にあったスギの苗木だったろうと想像される。

 では故郷の阿波から持参したスギの木を、どこに植えたのだろうか?

 まずはこちら、大麻止乃豆乃天神社(の流されてしまった古社地)だ。ここの元名は天の香久山に鎮座する「大麻等乃知」神だが、これこそ単純に「大麻等乃知すなわちオオトノヂ」であったことが分かるだろう。

 だが大麻止乃豆乃天神社は古代の当時は王の宮殿なので、庶民向けにも別途「枌楡」を設けたと想像される。それが病院の近くで偶然見つけた「椙山神社」だ。二河川の分岐点という好立地にあって、祭神は、やはりオオトノヂだったからだ。

 そして、その後に王は亡くなり、お墓が造られた。田園調布の多摩川の崖上にある宝萊山古墳だが、大型の前方後円墳でA.D.300年ごろの築造だ。

  

 写真はその宝萊山古墳だが、木が植わったままなので何が何だか分からない。

 で、これに併せて「南斗」を定めることになったはずだが、このあたりから話がズレてくるのである。中国とは。日本と中国では「神の定義」が違っていたのが原因だ。

 


                         さらにつづく