【神神の契約】釈 

西風隆介による公式の謎本  

謎の「椙山神社」と祭神「意富斗能地神」

 病院の近くに椙山(すぎやま)神社があったので訪ねてみた。『新編武蔵風土記稿』によると江戸時代には72社の杉山神社があったそうだが、現在では50社ほどに減っている(杉山神社を検索してグーグル地図に出すと20社ぐらい現れるので、お試しあれ)。
 謎多き神社群で(謎の大半は『神神の契約』で解き明かしたが)、多摩川より南側かつ境川(さかいがわ)よりは東側、といったごく限られた地域に分布している。境川は、ほぼ南北に流れていて、あの江の島に通じていて、武蔵国相模国の(文字通り)境の川である。

  

 ここは字が違っていて、ほぼ唯一の椙山神社だ。「椙」は、いわゆる国字(日本で独自に作られた漢字に似せた字)である。なぜこの椙を使っているのか不明だが、他の杉山神社とは違うよ~といった、ある種の差別化だろうか。

 神社の由緒書きには、奇妙な事が記されてあった。

「当社は『古事記』や『日本書紀』にも記されている有名な大和の国の三輪の里、現奈良県桜井市三輪町に鎮座する大神(おおみわ)神社の御神体である秀麗な三輪山にこの付近の山容がよく似ているところから元慶元年(877年)当地に勧請されたとの伝承がある」
 ええ? 勧請したんだったら大神神社か三輪神社にすればよく、椙山神社となっている経緯が不明だ。
 現在この付近の町名は、三輪町(みわまち)なので、つまり町名の由来はそれで正しいが、それを誰かが神社の由緒に上書きしてしまったのだろう。
 椙山神社は(杉山神社も)正体不明で無名の神社なので、有名な神社にかこつけたい、といった気落ちは分からなくもなくはない。
 さらに、御祭神のところの最後、あっと驚きの神様が記されてあったではないか!

 

 意富斗能地神
 その前の日本武尊(やまとたけるのみこと)と大物主命(おおものぬしのみこと)にはルビが振ってあるのに、これには無いのはどうしたことか?
 その理由は、この案内板の最後を見ると想像がつく。昭和56年に作られていたのだ。まだネット環境がない時代なので、これをどう読むのかリアルに分からなかったのだろう。
 これは御存じ『古事記』原文7行目に登場するオオトノヂオオトノベオオトノヂ、すなわち男神の方である。
 そして、この神名を変化させていくと大麻比古となり(神名変化の理屈は『神神の契約』279頁を参照)、阿波国大麻比古神社の祭神だ。つまり忌部の大神様であらせられたのだ。

 さて、以上のことを総合すると、こんな推理になる。
 明治初年の「神仏判然令」で各神社は祭神を確定する必要に迫られ(祭神不詳のままでは取り潰される)、だが杉山神社は大半が祭神不詳なので、適当に神様を見繕ったわけだ。有名な神様から。なので、意富斗能地みたいな読みすら分からないようなレアな神様をひっぱってくるというのは変だ。すると、この神社の過去帳のどこかに、この神名が記載されてあって、それを使ったのではと想像されるのだ。となってくると、「椙」という特殊な字を使っていることからも、他の杉山神社とは違って、やや大き目の氏神様神社に近いものであったのでは、と推理できるのだ。

 この付近の忌部の氏神様神社(すなわち南武蔵のそれ)は、大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)である。けれども、忌部が多摩川に入植した西暦280年頃、この大麻止乃豆を建造した当初は、そこは王の宮殿で、いわゆる神社ではないのだ。すると、氏神様神社が別途必要で、入植した初期のころ、この椙山神社がその役割を担っていた可能性が考えられるだろう。意富斗能地という忌部系の祭神の最古の名前が出てきたのも傍証となるだろうか。

  

 鶴見川から支流の麻生川への分岐点の近くにあって、立地は素晴らしく良い。大和の三輪山になぞらえられたぐらいだから、古代の景観を想像するに・・・・美しい。

 鶴見川は、多摩川の南側をほぼ平行して流れていて、小舟での通行に向く。かたや麻生川は、川幅が狭く、岸辺での大麻の栽培に向く。