【神神の契約】釈 

西風隆介による公式の謎本  

北武蔵(埼玉)の〝宮目神社〟と〝玉敷神社〟

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 西暦500年頃、北武蔵(埼玉)は日本で最大級の都市だったのだ。
 さきたま古墳群・小見真観寺古墳・真名板高山古墳の三角形は、倭国大和三山とほぼ同じスケールで、その国力は古墳からうかがい知ることができ、同時代の倭国のそれと比較して数段凌駕していたからだ(厳密にいうと小見真観寺古墳と真名板高山古墳は500年頃はまだ存在しない)。
 さきたま古墳群にある前方後円墳は、造出(つくりだし・墳丘に増設された出っ張り)および張出(はりだし・周濠の堤に設けられた出っ張り)を有し、これは最上位の古墳にのみ許された作りだ。しかも墳形は、右上のイラストを参照していただければ分かるが、大山古墳(仁徳天皇陵)を正確に模倣していたことが知られ、最初の稲荷山古墳は、大山古墳のジャスト4分の1のスケールなのだ。それすなわち、大王陵(天皇陵)の後継だと宣言していたわけであろう。それに忌部は、第二代綏靖天皇の子孫という特異な血筋であったことから鑑みると、この時期は京(みやこ)が遷都されてこちらにあった、といっても過言ではないのである。
 笠原村は、これは現在の行政区分(鴻巣市笠原)によるそれだが、生出塚埴輪窯(忌部のメイン工場)や宮目神社(忌部の中核神社)の位置からみても、古代はこのあたりが中心街であっただろうと想像される。

 「伊豆が久しい」こと久伊豆大明神が祀られている久伊豆神社の総本社である玉敷神社(ヒリ・モトゥ語のタマナ・シマナ=父親・母親に由来する)は、1574年、上杉謙信の武蔵出兵のおりに社殿や古文書類のすべてを焼失し、1627年、数百メートル南にあった宮目神社の境内地に再建された。親戚筋にあたる神社だと往時には伝承が残っていたのかもしれない。だがその後、庇(ひさし)を貸したら母屋を乗っとられ、玉敷神社になってしまったのだ(写真参照)。

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  摂社の宮目神社は、玉敷神社の社殿の裏(北)側に、こじんまりと置かれている。だが案内板に記されてあった内容は、特筆にあたいする。 

 一、御祭神  大宮能売神(おおみやのめのかみ)
 一、由緒   玉敷神社がこの地に遷座されるまでは、この社地の地主神として鎮座していたとされ、同名の「式内社」にも比定されている歴史のある古社である。
 一、御神徳  元来、家屋を守り、その安全平和を保つ神であるが、地主神という由緒から山王信仰の影響を受けて「山王様」と称され、この地の守り神として尊ばれた。 

 女神様なのに〝地主神〟とはこれいかに。
 古代は男が圧倒的に優位な世界だから、ふつうに考えると奇妙で、それに祭神の大宮能売は、そもそもは宮中女官で、天皇に側仕えする役目なのだ。だが『神神の契約』で解き明かしたように、この宮目神社は、忌部が領土宣言のために置く北の神殿なので、まさに地主の神となって、その種の伝承が近代まで色濃く残っていたのだろう。それを歪曲せず、そのまま案内板に記してくれていたので、こうやって謎が解けるわけだ。

 神楽殿は1836年の建立で、茅葺き屋根で風格があり、どこぞのそれはえらい違いだ。ここの神楽は江戸神楽の原形をなすそうで国の重要無形民俗文化財に指定されている。その神楽の幾つかは、渡部作夫さん作製のビデオで観ることができる。山の神の舞鈿女の命 猿田彦の舞イザナギ イザナミの連れ舞オカメの舞戸隠明神の舞

  琴平神社は、忌部系の大神様が祀られた神社には付きものの、金比羅神社である。グーグル地図の定点写真にリンクを張らせていただいたが、狛犬の右奥に見えている社がそれである。あれ?……この配置はどこかで見たような記憶が……そう、安房の安房神社とまったく同じ場所で(拝殿玄関前の右手側)つまり犬小屋の位置に置かれているのだ。
 けれど、よくよく考えればこれは奇妙で、玉敷神社と金比羅神社は、とどのつまりは同じ祭神だからである。玉敷神社は、タマナ・シマナ(父と母)つまり三嶋大明神一族の先祖神を祀っており、金比羅はヴァーハナ(神の乗り物)で、それすなわち三嶋大明神の化身だからだ。
 案内板には「この社の過去のことを記す古い記録はなく創建・由来等不明である」と記されていて、おそらく、玉敷神社に付随していた社ではなく、古代の宮目神社のころから、ここに置かれてあったと想像されるのだ。

  なお、ここの本殿もしくは摂社の宮目神社から正確に真南に線をおろしていくと、約70キロ離れて、忌部が領土宣言のために置いた南の神殿、川島杉山神社の本殿があり、さらに約22キロ離れて、森戸大明神の本殿が置かれている。こちらは源頼朝の創建だが、三嶋大明神そのものが祀られている。東経はおのおの、139.5697、139.5698、139.5696で、下四桁目が1ちがうと約10メートルずれるので、驚異的な精度だ。人間業とは思えないが、古代の人は偉大であったのだ !!!