【神神の契約】釈 

西風隆介による公式の謎本  

ムー 2023 年 10 月号「神託」補足説明

《古代の超能力「神託」の秘密・ギリシアと日本を結ぶ「幻視」のメカニズム》
 この記事の補足説明です。

 ★クロイソス王の物語は、ほぼ全てがヘロドトス著『歴史(historiai)』にあったものです。BC5世紀ごろの有名な書物ですが、そんな中に、現代にも通用する「超能力の検証実験」が語られていたとは、驚きです。世界史で習うはずだからヘロドトスは知っていても、実際に『歴史』を読む人は少数なのでしょう。

 ★クロイソス王が建造した古代七不思議の一つアルテミス神殿は、これに嫉妬したギリシア本国が同規模の神殿を建てようと試みたのですが、何百年もかかって結果失敗したほどの荘厳な建造物だったそうです。ところが、アルテミス神殿は《エフェソス》に建っていたのが不幸の始まりで、エフェソスといえば「エフェソス公会議」が有名ですよね。キリスト教全体の公の会議で、そんな催しが行われた場所だから、すなわちキリスト教の聖地となってしまって、するとアルテミス神殿は邪教の館として敵視され、またたくまに解体されて、教会などを造る建築資材に流用されてしまったそうです。近年、イスラムの過激派が遺跡を破壊して非難囂々ですが、長い歴史で見れば、キリスト教徒の方がはるかに多くの貴重な文化遺産を破壊してきたはずです。

 ★ノストラダムスの「水盤占い」の話は、ローズマリー・エレン・グィリー著の『魔女と魔術の事典』のノストラダムスの項に記述があります。大筋は正しいんですが、大半はデタラメで、ですが参考までに引用しときましょう。
「彼(ノストラダムス)が手本として応用した方法は、小アジア西岸ディデュマのアポロン神託所の創設者ブランクスによって実践されたと伝えられている魔術的祭儀である。夜になると、螺旋階段を上がって最上階の書斎に一人引きこもり、真鍮の三脚のついた水盤に水を一杯に張る。デルポイの巫女が持っていたとされる月桂樹の杖を片手にその三脚に触れ、水を数滴、自分の服に塗りつける。それから静かな水面を見入り、それがにわかにかき曇ると、幻影が見えてくるのであった。」
「ディデュマのアポロン神託所の創設者ブランクス」の話はどうでもよく、本家のデルポイでやっていた方法を真似たにすぎません。アポロン神託所は人気が高かったので、各地に分家が誕生したんです(日本の神社と同じ)。火山で埋もれたポンペイにもアポロン神殿がありました。
「月桂樹の杖」のくだりはデタラメですが、「真鍮の三脚のついた水盤」の話は、意外と正しいです。

 壷絵では、ピュティアが三脚椅子に座っていますが、三脚座は水盤の台として使われた、と考える方が理にかなっているからです。なお、この三脚座は神託所を象徴する物品で、それをめぐってアポロンヘラクレスが戦ったという逸話があったりします。

 ★「囚人の映画」という聞き慣れない用語は、オリヴァー・サックス著『幻覚の脳科学・見てしまう人びと』の中にあったものです。オリヴァー・サックスは、有名な映画『レナードの朝』の原作者です。これは30年以上前の映画なので、原作者も当然高齢となって、というより2015年にすでに亡くなっておられ、この『幻覚の脳科学』は2014年で彼の最晩年の著作です。けれども、今世紀の本なので、あの「シャルル・ボネ症候群」に関しては、かなりのページをさいて書かれています。現在読むことができる「シャルル・ボネ症候群」について最も詳しい本がこれだと言えるでしょうか。けれど彼は、超能力・霊能力との関係については(知ってか知らずか)一切言及されていません。

 ★幻視を見るには大別して3つの方法がある。①道具。②薬物。③シャルルボネ症候群。と記事には書きましたが、さらに2つほど追加です。
 ④脳の病気や怪我などによってシャルル・ボネ症候群と似たような症状を呈します。クローネンバーグの映画『デッドゾーン』では、自動車事故で昏睡状態になった主人公が目覚めると超能力が覚醒します。つまりこれの元ネタですね。
 ⑤目の瞳孔を随意に開かせることが出来、すると画面(脳の視覚野)に白ボケを生じさせ、そこに幻視を映し出すことが出来る、といった方法です。
 極めて特異な話で恐縮なんですが、筆者は2例知っています。つまり2人しか知りません。ともに女性で、1人は中国人の医者です。20数年前に夜6時頃のニュース番組の中で紹介されました。当時はこの種の話を堂々ニュースで放送するほどの良い時代だったんですね。「××さんの目は不思議」といったナレーションとともに、ふあ~と瞳孔が開いていく様子が映像に撮られています。彼女は他人の病変を透視できたんです。極めて正確に。
 もう1人はヨーロッパの(当時は)大学生女子です。これも20年ほど前ですが、同様に他人の病変を透視できました。とはいっても未熟です。先の中国人医師は、解剖学的な人体図が自身の脳に正確に記憶されてあったので、おのずと透視も正確になるんです。
 この大学生女子は、日本に招待してテレビ番組が作られました。そこには私も出演していたんです。で、中国人医師の事例もあって理屈はある程度分かっていたので、テレビスタッフに、目をアップで撮影しといて下さいね、と事前にお願いしてあったので、ちゃんと撮られています。
 ところが、2番組ともVHSに録画されてあって、何とかしてユーチューブなどにアーカイブとして残そうと考えてはいるんですが、いつのことになることやら・・・・・

まな美と土門くんが喋る「漢の長安城」の秘密(その2)

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「はーい、はーい」
 まな美が、盛んに手を挙げている。
「なんや? なんや?」
 土門くんは面倒臭そうにきく。
「もう疑問だらけだわよ。この土門くんの作った地図は」
「何が疑問なんやあ」
「まず劉邦の方は『お墓』なのに、どうして妻の呂后には『お』が付いてないのよ?」
「姫かて知っとうやろ? 呂后って、中国の三大悪女のひとりやねんぞう」
「まあ、少しぐらいは知っているけれど」
 と、まな美は口ごもる。
「他の妃やその子供たちを次々と殺していって、その残虐非道さは、うちらみたいな清き正しき青少年では、口に出しては決して言われへんような内容や」
「どこが清き正しきなのよ」
 まな美は、悪態をついてから、
「じゃあそれは許すとして。この二つのお墓が、斜めを向いているけれど、これは正しいの?」
「そや、これは地図そのまんまで、傾けたりしてへんぞう」
「それで辻褄は合うの?」
 土門くんは、ふ、ふ、ふ、ふ、と不敵に笑ってから、
「実はやな、この斜め向いとうお墓に関しては、秘密が隠されとったんや」
「何のことなのよ?」
「さきたま古墳群かて、斜め向いとったやんか。あれは辿っていくと、富士山の方に足を向けとったわけや。それと同んなじような話ちゃうやろか思て、線を引いてみたぞう・・・・・」

「15度ほど傾いとんねんな。それを北の方にどんどん延ばしていくと、30キロほど先に、突然山があんねん」
「とつぜんやま? それが山の名前?」
「ちがうわい! ずーっと平らやねんけど、突然高い山があんねんな。標高 1300 メーターを超えとって、六甲山よりも高いぞう」
「知らないわよ、そんな山」
 まな美は横を向いて小声でいう。
 土門くんは、ぎろっと睨んでから、
「そやけど、中国の地図は今いちよう分からへんねん。もちろんグーグル地図やねんけど、すとりーとびゅーなんかもあらへんし」
「それは無理だわ。写真を撮りながら車を走らせるなんて、中国で出来るわけがないし」
「スパイで監獄いきや。まあそんなこんなで、山の名前すらよう分からへんねん。なんとか山、いう表記が出てけーへんので、縮尺をどんどんどんどん上げていったら、山の頂上付近に、とある文字が現れたんや。それが《老庄》いうねん。老人の老に庄屋さんの庄・・・・・」

「老庄? なにかで聞いた記憶があるわね」
「これ中国語やねん」
 といってから、土門くんは笑う。
「それは絶対に間違いない」
 まな美も笑っている。
「中国語やから日本語に翻訳できんねんな。で日本語に訳してみると、老庄とは、すなわち《老荘》のことやて。荘は荘厳の荘」
「あ! それは老子荘子のことだわ」
「そういうことやねん。自分は詳しくあらへんねんけど、つまり道教の祖やろ。実在しとったかは不確かな、いわゆる仙人や」
老子はたぶんそうだけれど、荘子の方は実在よ。紀元前 300 年ごろの人で、《胡蝶の夢》といった説話で有名」
「あ、なんかそれ聞いたことあんなあ、漢字もおぼろげに浮かぶぞう」
荘子がある夜、自身が蝶になって飛びまわる夢を見たんですって。そして目が覚めて、今の自分は、蝶が見ている夢かもしれない、て思うのね」
「流行りの転生漫画の元ネタや」
 土門くんは皮肉っぽくいってから、
「関東の北にある日光山は、観音菩薩が住んどうことになっとって、そやから日光山を基点にして、お寺がいっぱい建っとうやんか。あんなんと同なじで、中国のここは、老子荘子が住んどっての聖山で、たぶんそんな伝承になっとって、そやからそっちの方を向くようにお墓を造った、いうんが真相やないやろか」
「すご~い!」
 まな美は小さく拍手してから、
「ところで、それは土門くん独自の説?」
「まあ一応そうやねんけど、誰ぞかんぞ知っとってなんちゃうやろか。自分これ見つけるのに30分もかからへんかったんで」
「さ! 30分?」
「お墓がいかにもわけありげに傾いとうやんか。こんなん見たら、地図に線を引きとうなるぞう、もうそういう思考が染みついとんねん」
 といって、土門くんは笑う。

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                         これはこれでつづく

告知「ムー」10月号 9月8日発売

 9月8日発売の「ムー」10月号に記事を書かせていただきました。

 古代の超能力「神託」の秘密 古代ギリシアと日本を結ぶ「幻視」のメカニズム

 といった内容で、おもに入院中に書いた原稿です。実をいうと(ここだけの内緒の話ですが)当時病院内ではコロナが蔓延していて病室の4分の1ほどが閉鎖隔離されていたのです。そこの病院が悪い、というわけではありません。私が入院した丁度そのあたりでコロナが「5類」へと分類され、インフルエンザなどと同じ扱いになったので、チェック体制がゆるくなり、コロナ患者が院内にもぐり込んできたわけです。これはどこの病院でも似たような状況で、所詮「5類だし」という言葉が病院だけの流行語として流行ったようです。けど医者やナースのやることは以前と変わらず、例のものものしい防護服を着ての対応です。その着替えは廊下でやっていたのです。そのすぐ横を通って私はトイレに行ったりするわけです。当然、伝染る確率大ですよね。私はかつて超絶ヘビースモーカーだったこともあって肺はすでにボロボロで、コロナに罹ればいちころでしょう。なので原稿を書くことにしたのです。つまり万が一のさいの、遺稿、て感じです。だからいつもよりも気合が入った原稿、かもしれません。

 ともあれ、誌面の都合上あれこれ割愛していますので「ムー」発売後に、こちらで補足説明を行う予定です。「ムー」10月号を買って下さいね。

 

 

まな美と土門くんが喋る「漢の長安城」の秘密(その1)

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「城の南は南斗の形をなし、北は北斗の形をなし、今人に至りて漢の京城を呼びて斗城と為すは、これなぁ~り」
 中国古代の地理書『三輔黄図』の一節を、土門くんは滔々と読んでから、
「漢の京城とは、劉邦が紀元前200年ごろに造りはった漢の長安城のことや。その詳しい地図を見つけてきたんで、ほな、ででーんと」

  

「どこから盗ってきた図なのよ? 原典は分かっているの?」
「中国人著作権、無問題(もうまんたい)」
 土門くんは、あやしげな中国語を呟いてから、
「右側のは維基百科という中国語版ウィキペディアにあったやつやから、たぶん大丈夫や。漢字が日本風やから分かり易いやろ。そやけど、中国本土からは金盾とかでブロックされとって読まれへんそうや」
「あら、繁体字で書いてくれているのね。漢字って、漢の国から齎された字だから漢字なのに、その漢という字を、サンズイに又と書く、いわゆる簡体字に変えてしまったんだから、中国は何を考えているのかしら」
 まな美は、ぶつくさと文句を言っている。
「左側のやつは、確証はあらへんねんけど、たぶん中国の文物出版社いうとこが2003年に発行した本が原典で、著者は、劉・・・なんとかさんや。本の表紙の写真を見つけたけど、これは検索したら絶対にあかんぞう」
「ど、どうしてなの?」

「――詐欺サイトに繋がっとうからや! 写真を何枚も使こて丁寧に本の内容を説明しとって、8割引とかで値段が安いから買いそうになって、けどぉ~安すぎるなぁ~と念のために店の名前を検索してみると、1発で詐欺サイトやと出てくるやないか! こんなまにあっくな本で人を引っかけようとするなんて、どないな根性しとんねん。もうちょっとで引っかかりそうになったわい! 中国がからむと碌なことがあらへん!」
 と、土門くんは吠える。
 ふたりしてしばし怒ってから、
「城の南は南斗の形をしとって、北は北斗の形をしとうそうや。北の方は、そこそこ分かり易いぞう。城壁の形に注目や」
 まな美は、地図をじーっと眺めているだけで、言葉を発しない。
「ふ、ふ、ふ、ふ、姫の弱点は知っとうぞう。地図を読み解くのは苦手や」
「そ、そんなことないわよ!」
「しょちゅう道に迷とうやんか。ヒントはなや、北斗にあった二重星や。ミザールとイワザールぅ」
 正しくは、ミザールとアルコルであるが、
「ほれ、ここが二重星になっとうやんか」
 と、土門くんが地図に赤丸をつけた。

「そしてこうやって辿っていくと、ちょうど北斗七星の形になっとうねん」
「なるほどねえ」
 まな美は、しばし感心してから、はたと気づいていう。
二重星の位置って、確か尻尾から2つ目じゃなかったかしら。位置が違っているじゃない!」
「ば、ばれたかあ・・・・・」
 土門くんは、大袈裟に頭をかきながら、
「姫は地図が苦手やからこれで騙せる思たんやけどやっぱりあかんかったなあ。実をいうとな、正解はこっちやねん、ほなでで~ん」
 と、次なる図面を提示した。

「1か所に星が密集しているじゃない!」
「それはしゃ~あらへんなあ。信じる者は救われる。鰯の頭も信心から。竹箒も五百羅漢。当たるも八卦当たらぬも八卦
 土門くんは、妙な格言を羅列する。
「それに、南斗六星の方は? どうなっているのよ?」
「それはやなあ、また何かのついでのおりにでも」
 そちらはさらに自信がないらしく、土門くんは胡麻化してから、
「この長安城の真北に劉邦のお墓があったわけやあ。そっちの地図は自分で作ったぞう。ほな、ででーん」
 と、強引に話を進めていった。

 

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                         これはこれでつづく

 

「枌楡」と「南斗」と「神の社」

 杉山神社は、最も古い表記では、枌山神社だ。この「枌」という漢字は、スギと読めなくもないのだが、本来は(中国側の字義では)ニレの木である。

 さて「枌」を検索すると即座に出てくる熟語(故事)がある。それが「枌楡」だ。フンユと読み、楡も同じくニレの木である。その意味はというと――

『精選版 日本国語大辞典』によれば、
(漢の高祖が郷里から都に移して父の心を慰めた社の名とその祭神がこの木であるところから) やしろ。神社。神域。転じて、上皇の御所。また、故郷。

デジタル大辞泉』によると、
 《漢の高祖が、故郷の社にあったニレの木を都に移し、神としてまつったところから》神聖な場所。神社。転じて、故郷。

 ――とまあ似たような説明だが、ここでの注意点は、

①「神社」といった用語は、古代の中国には《無い》ということなのだ。だから日本側による追加の説明だ。それにそもそも、神様の概念そのものが中国と日本では違っていたのだ。

②「漢の高祖」とは、劉邦のことである。四面楚歌でおなじみの楚の国の項羽に勝利して、B.C.201年、統一国家の漢を建国した中国古代の英雄だ。その劉邦が建造したのが「漢の長安城」で、これは元祖「北斗・南斗信仰」に基づいた都だが、忌部は、この造りや信仰を、そっくり踏襲していたのである。いうならば、忌部は《漢マニア》だ。家康は《鎌倉マニア》で、頼朝は《京マニア》だったように。
 漢マニアの忌部にとって、「枌楡」ほど興味をそそられる故事はない。何たって「漢の高祖」が関係していたし、是が非ともこの枌楡を実践し、真似ようとしていたと考えられるのだ。
 では古代の当時、忌部は、どのような段取りでそれを実行に移したのか、それを推理してみた。

 忌部は、A.D.300年のすこし前あたりに、武蔵の多摩川沿いに入植した。そのさいに故郷の聖地にあった神木(の苗木)を持参したのだと想像される。だがニレは北方の木で、故郷の阿波の国にはない(当時の大和国にはない)。忌部は、三嶋の船を使って中国へは度々訪れていたはずなので、枌楡が、何の木を意味するのかは知っていたと想像される。だが日本側には無いので、別の木を身代わりに用いたのだろう。それが「スギの木」だったのである。

 では、どこのスギの木なのか?

 候補地は幾つか考えられるが、真っ先に思い浮かぶのは、若杉山遺跡のそれだろうか。ここは阿波最古の王様の墳墓・萩原2号墓の真南(ともに東経134・5219にあり約30キロ離れている)にあって、A.D.200年ごろからの「南斗」の祭祀場だ。
 若杉山の近隣に若杉谷や若杉谷川などもあって、古代からの地名だったと推測される。だが、若杉山の「若」という漢字には、引っかかりを感じる。「若」があるのなら「老」もあったはずで、つまりスギの木が関係した、より古い聖地があったのではと想像されるのだ。考えられる候補地は、次の2箇所である。

大麻比古神社大麻山

 四国最古(おそらく日本最古)の神社で、再々説明してきた『古事記』原文7行目のオオトノヂが原初の祭神だ。だが古代の当時、ここは神の社でなく、男王が居城する宮殿だったと想像される。女王(巫女)はオオトノベで、そちらの宮殿は、約15キロ離れて、ほぼ真南にあった。
 大麻山は、標高538メートル東西13キロほどの大きな山で、徳島平野の北側に聳えていて、大麻比古神社をはじめ萩原2号墓などの歴代の王墓は、この裾野にある。いわゆる聖山なので、開発はされていない(ようである)。観光案内等によると、「山頂付近は昼も暗い自然林」だそうで、そこに大麻比古神社の奥宮・峯神社が鎮座している。その近隣に「天然記念物・大麻山峯神社の大杉(合体木)」が立っているそうだが、「推定樹齢は約300年以上とみられる」とあって、それほど古い木ではない。それに古代の当時、大麻山全域でスギの木が優勢だったかどうかは、定かではない。

上一宮大粟神社と神山杉

古事記』によると、イザナギイザナミが結婚して「国生み」のさい、まず淡路島が生まれ、つぎに伊予之二名島(いよのふたなのしま=四国)を生んだ。その島は身体は一つで顔が4つ、それぞれの顔に名前があって、伊予国をエヒメといい、讃岐国をイヨリヒコといい、阿波国オオゲツヒメといい(以下略)。
 このオオゲツヒメ(大宜都比売)を祀っているのが上一宮大粟神社で、すなわち阿波国創世の地というわけだ。なので我こそが一宮だと主張しており、上・一宮・大などと神社名が飾られている。だが一宮は、先の大麻比古神社だと決着している(イザナギイザナミよりも古いオオトノヂだし)。

 神上一宮大粟神社徳島県名西郡神山町と呼ばれる山間部にあって、ブランド木・神山杉の産地である。けどこれは近代の話だろうし、ここには忌部系の祭神は祀られておらず、近隣に忌部関連の神社も無く、それに『古語拾遺』にも一切言及は無いので、忌部がここを聖地とみなしていた、かは疑問だ。

 なので結論、十中八九①にあったスギの苗木だったろうと想像される。

 では故郷の阿波から持参したスギの木を、どこに植えたのだろうか?

 まずはこちら、大麻止乃豆乃天神社(の流されてしまった古社地)だ。ここの元名は天の香久山に鎮座する「大麻等乃知」神だが、これこそ単純に「大麻等乃知すなわちオオトノヂ」であったことが分かるだろう。

 だが大麻止乃豆乃天神社は古代の当時は王の宮殿なので、庶民向けにも別途「枌楡」を設けたと想像される。それが病院の近くで偶然見つけた「椙山神社」だ。二河川の分岐点という好立地にあって、祭神は、やはりオオトノヂだったからだ。

 そして、その後に王は亡くなり、お墓が造られた。田園調布の多摩川の崖上にある宝萊山古墳だが、大型の前方後円墳でA.D.300年ごろの築造だ。

  

 写真はその宝萊山古墳だが、木が植わったままなので何が何だか分からない。

 で、これに併せて「南斗」を定めることになったはずだが、このあたりから話がズレてくるのである。中国とは。日本と中国では「神の定義」が違っていたのが原因だ。

 


                         さらにつづく

 

「すもも祭」と「野原商店」乃しいか

  

 閑話休題
 7月20日大國魂神社の「すもも祭」だったので行って来た。とはいっても、スモモの販売所はせいぜい10店舗ぐらいで、他の9割以上が通常のお祭りの出店だ。
 すもも祭の起源は「源頼義・義家父小が奥州安倍氏平定(前9年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし(以下略)」と案内板にあったが、馬場大門けやき並木の由来や、大國魂神社の本殿と拝殿が真北を向いているのは源頼義・義家父小が奥州安倍氏平定のさいに建てかえたという話と同様、眉唾である。だから別途、ちゃんとした起源があるはずだと想像され、こちらも中国の故事に関係するのではと現在調査中だ。また、からす団扇やからす扇子の「カラス」も、五穀豊穣・悪疫防除・厄除といった、そんなありきたりな理由ではなく、やはり別途、起源がありそうな感じがする(カラスといえば、ふつう八咫烏だし・・・)。

  

 2017年の「すもも祭」の写真があったので、比較してみた。吊るされた袋の大きさが全然ちがう。貴陽は3割アップ、ソルダムは倍の値段、て感じだ。貴陽は木で熟させているそうで、そのまま食べられるが、ソルダムは数日追熟させてからだ。この2品種が美味しく人気だそうである。
 そして何と! 神社グッズが、しれっと値上げしていたではないか! この大幅値上げは今年からである。
 そして、寂しいお知らせがひとつ・・・・・

  

 大國魂神社のお祭りに行くのは、野原商店の乃しいかが目当てだったのだ。かれこれ20年ほど前から買っている。七輪で炙ったスルメイカをプレス機にかけて1メーター以上に伸ばしていく、究極のナチュラルフードで調味料などいっさい使われていない。そして都度店主と、ひとことふたこと話をした。「後継者がいない」とか「もう俺は歳だ」とか「今年で最後だ」とか、「まあそうおっしゃらずに来年も」と野原商店のフアンは沢山いて皆異口同音に言うのだった。けれども、今年のすもも祭に店主の姿は見られなかった。乃しいか屋そのものが無かった。文化がひとつ消えてしまったようで寂しい。

 

 

「杉山神社」と「枌山神社」の謎に迫る

 杉山神社は、貞観11年(869年)編纂の『続日本後紀』の記述が最も古く、承和5年(838年)2月の条に、「武蔵国都筑郡枌山神社預之官幣。以霊験也」とあり、そして延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に、「都筑郡杉山神社」とあり、つまり「枌」から「杉」へと漢字が変わった事が分かる。

「枌」は、日本ではスギと読んだりもするのだが、元来の意味(中国での字義)は、ニレの木である。ニレとスギは全然ちがう。スギは悪名高きスギ花粉をばらまく常緑針葉樹だが、ニレは落葉広葉樹で紅葉が美しく盆栽などにも用いられている。こういった全然ちがう木に、なぜ変えたのだろうか? その謎を追っていこう。

  

多摩川中流域における神社の境内の樹木の研究・特に境内の樹種構成とその配置」といった研究論文が pdf で配布されていて読むことが出来る。境内樹木の配置などが詳細に調査された労作で、著者の秋山好則さんに謝意。
 それによると、神社の御神木(柵を設けたり注連縄が張られたような巨木)の1番人気は、ケヤキであるそうだ。上の写真は、大國魂神社の大鳥居付近にあるそれで、冬と春の姿である。
 2番目はイチョウで、これもまあ理解できる。そして3番目がスギだそうである。ただしスギを御神木にしているのは青梅市東大和市東村山市のような、いわゆる田舎の神社で、都会の神社にはスギの御神木は、ほとんどない。元来スギ林だったところに神社を建てたからそのままスギを御神木にしたんだろうな~と安易に考えたのだが、これは間違っていたようだ。
 大國魂神社では、江戸時代から境内樹木を綿密に調査していてデータが残っている。それによるとスギの本数は、1812年は345本、1913年は275本だったのに、1973年の調査では、な、なんと0本なのだ。これは他所の調査でも同様で、幹周囲3メータ以上のスギの巨樹が昭和8年(1933)の東京市には19本もあったのに、昭和63年(1988)の東京都の調査では、やはり0本と消滅していたのである。意図的に伐採されたわけではない。スギは、花粉の悪役ぶりとは裏腹に、意外とデリケートな樹木で、公害や環境変化には耐えられないのだそうである。だから都会からは消えてしまったのだ。

 さて、先の pdf 論文によると、境内に使われていた樹木は、全部で138種類だそうである。だが、問題となっているニレの木は、この一覧表には名前が無いのだ。多摩川流域の神社には、どうやらニレの木は1本も植わっていないようなのだ! はてさて、これはどうしたことなのだろうか?

 結論からいうと、ニレは北国の木なのである。北海道では街路樹にふつうに使われていて、東北地方でも自生しているようだが、関東の北の山あたりが南限らしいのだ。だから乱暴にいうと、古代の大和の国には、ニレの木なんかそもそも存在しなかったのである(古代の国境は香取神宮鹿島神宮だ)。

 だが「枌」という漢字が中国からもたらされて、忌部は、これを使おうとした。その理由は『神神の契約』にも書いたが、中国側に「枌楡(ふんゆ)」という故事があったからなのだ。だがしかし、中国と日本とでは、そもそも神の概念がちがっていたのだ。忌部は、そのあたり、どう折り合いをつけていったのだろうか?・・・・・以下話が長くなるので、別項を立ててご説明しよう。

 

                      つづく

 

 

謎の「椙山神社」と祭神「意富斗能地神」

 病院の近くに椙山(すぎやま)神社があったので訪ねてみた。『新編武蔵風土記稿』によると江戸時代には72社の杉山神社があったそうだが、現在では50社ほどに減っている(杉山神社を検索してグーグル地図に出すと20社ぐらい現れるので、お試しあれ)。
 謎多き神社群で(謎の大半は『神神の契約』で解き明かしたが)、多摩川より南側かつ境川(さかいがわ)よりは東側、といったごく限られた地域に分布している。境川は、ほぼ南北に流れていて、あの江の島に通じていて、武蔵国相模国の(文字通り)境の川である。

  

 ここは字が違っていて、ほぼ唯一の椙山神社だ。「椙」は、いわゆる国字(日本で独自に作られた漢字に似せた字)である。なぜこの椙を使っているのか不明だが、他の杉山神社とは違うよ~といった、ある種の差別化だろうか。

 神社の由緒書きには、奇妙な事が記されてあった。

「当社は『古事記』や『日本書紀』にも記されている有名な大和の国の三輪の里、現奈良県桜井市三輪町に鎮座する大神(おおみわ)神社の御神体である秀麗な三輪山にこの付近の山容がよく似ているところから元慶元年(877年)当地に勧請されたとの伝承がある」
 ええ? 勧請したんだったら大神神社か三輪神社にすればよく、椙山神社となっている経緯が不明だ。
 現在この付近の町名は、三輪町(みわまち)なので、つまり町名の由来はそれで正しいが、それを誰かが神社の由緒に上書きしてしまったのだろう。
 椙山神社は(杉山神社も)正体不明で無名の神社なので、有名な神社にかこつけたい、といった気落ちは分からなくもなくはない。
 さらに、御祭神のところの最後、あっと驚きの神様が記されてあったではないか!

 

 意富斗能地神
 その前の日本武尊(やまとたけるのみこと)と大物主命(おおものぬしのみこと)にはルビが振ってあるのに、これには無いのはどうしたことか?
 その理由は、この案内板の最後を見ると想像がつく。昭和56年に作られていたのだ。まだネット環境がない時代なので、これをどう読むのかリアルに分からなかったのだろう。
 これは御存じ『古事記』原文7行目に登場するオオトノヂオオトノベオオトノヂ、すなわち男神の方である。
 そして、この神名を変化させていくと大麻比古となり(神名変化の理屈は『神神の契約』279頁を参照)、阿波国大麻比古神社の祭神だ。つまり忌部の大神様であらせられたのだ。

 さて、以上のことを総合すると、こんな推理になる。
 明治初年の「神仏判然令」で各神社は祭神を確定する必要に迫られ(祭神不詳のままでは取り潰される)、だが杉山神社は大半が祭神不詳なので、適当に神様を見繕ったわけだ。有名な神様から。なので、意富斗能地みたいな読みすら分からないようなレアな神様をひっぱってくるというのは変だ。すると、この神社の過去帳のどこかに、この神名が記載されてあって、それを使ったのではと想像されるのだ。となってくると、「椙」という特殊な字を使っていることからも、他の杉山神社とは違って、やや大き目の氏神様神社に近いものであったのでは、と推理できるのだ。

 この付近の忌部の氏神様神社(すなわち南武蔵のそれ)は、大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)である。けれども、忌部が多摩川に入植した西暦280年頃、この大麻止乃豆を建造した当初は、そこは王の宮殿で、いわゆる神社ではないのだ。すると、氏神様神社が別途必要で、入植した初期のころ、この椙山神社がその役割を担っていた可能性が考えられるだろう。意富斗能地という忌部系の祭神の最古の名前が出てきたのも傍証となるだろうか。

  

 鶴見川から支流の麻生川への分岐点の近くにあって、立地は素晴らしく良い。大和の三輪山になぞらえられたぐらいだから、古代の景観を想像するに・・・・美しい。

 鶴見川は、多摩川の南側をほぼ平行して流れていて、小舟での通行に向く。かたや麻生川は、川幅が狭く、岸辺での大麻の栽培に向く。

 

 

 

「御霊宮」神輿

    

  

  

 5月5日、何年かぶりに大國魂神社例大祭「くらやみ祭」が開催されたので、懸案だった写真を撮りにいった。動いている「御霊宮」神輿である。祭りに参加する神輿は8基だが、これ1基だけ全く別の動きをして、西の鳥居をくぐって外に出るのだ。

 より詳しくは、修復中のそれを見ることが出来る。

 屋根だけじゃなく側面にも多数の竜がとぐろを巻いていて、世に二つとない特殊な形状の神輿であることが分かるだろう。
 その謎解きは『神神の契約』に書いた通りで、かつての神仏習合時代の名残であり、

御霊宮摩多羅神北斗七星の二重星、をあらわしている。

 つまり「祟り神」などではないのだが(大國魂神社にはその種の伝承はない)、万が一という事もあるので、この写真をご覧になった皆様方も、ご注意下さいませ。

 

 

忌部ゆかりの川崎市「麻生区」と「麻生川」

 わたくし事で恐縮ですが、5月8日に転んで肘を骨折してしばらく入院していました。川崎市麻生(あさお)区にある麻生総合病院に。
 な、なんと、忌部ゆかりの麻生区です。忌部は、麻の栽培地を求めて、はるばる東国まで入植してきたわけですから。
 さらに入院中に「日本で最も長寿な市区町村はどこか」というニュース報道があって、川崎市麻生区が1位に輝き、2度ビックリです。 

  

 現在はリハビリのために通院中ですが、この麻生(あさお)川のほとりを、とろとろ歩いて病院へ行くのです。古代の情景を彷彿とさせる、ような小綺麗な川ではありません。麻(大麻)の草は生えてないか、と注意深く見ているんですが、あるはず無いですよね。1700年も前の話なので。

 さて、退院してから写真を整理していて、奇妙な偶然に気づきました。怪我をした丁度3日前の同時刻に、とある写真を撮っていたのです。まあ「禁断の写真」に類するもので、それに祟られてしまったのかもしれません。その写真というのは・・・・・

 

 

                          つづく



石霞渓とヤマタノオロチ

 これはムー4月号に掲載された写真だが、伯備線の「生山駅」の近くで撮影したものだ。いかにもオロチの鎌首が、3つほど、だら~とのびているように見えるのだが、いかがだろうか?
 あたりは「石霞渓」と呼ばれる景勝地で、名前が付いている大岩も多数あって、獅子岩、仙人岩、畳岩、桃岩、天狗岩などだが、どの岩がどの名称なのかは、現地の案内人にでも教えてもらはないと、不明だ(ネットを探しても見当たらない)。だから上の写真の岩も、名前が付いているのかどうかは不明なのだ。
 数日前から雨がけっこう多かったので水かさが増していて、偶然こう見えたのかもしれない。通常は、こうは見えないのかもしれない。もろもろ不明なのである。
 取材旅行で「生山駅」を訪れた理由は、日野川の大きな分岐点がここにあったからだ。別の川から八岐大蛇がのしのしやって来て、その川の分岐点(合流点)で決闘する、というのは、いかにもありそうなシチュエーションではないか。
 だが「八雲立つ」写真と同様で、こういった八岐大蛇の岩の写真が撮れようとは、事前にはゆめゆめ思っていないのだ。水かさのなせるワザなのかもしれない(これも八束水臣津野命の差し金だろうか)。

    

  

  

 写真は遠くから撮り始めていて、時系列的に並べてみた。全体のフォルムもさることながら、とくに眼のあたりや鼻先の牙などが、極めてリアルだ! それとも、私の審美眼がゆがんでるのだろうか? 先入観で。

 八岐大蛇は、須佐之男命が準備した酒樽に首を突っ込んでガブ呑みして泥酔したところを討ち取られてしまうのだ。そんな伝承が生じたのは、この岩が原因ではないのか ⁉ とすら思えてしまうのだった。

 

「八雲立つ」撮影の秘話

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 今を遡ること40数年前の話だが、筆者が大学(鳥取大学)に通っていたころ、学友に地元(鳥取県)出身の男子がいて、その彼がこんな事を言ったのだ。                   
ヤマタノオロチに関係するヒノカワって、鳥取県米子市にもあるんだぜ、日野川が……」
 そんな話を聞いて、ふふ~んと小馬鹿にしたのを覚えている。
 そもそも、当時の私は、ヤマタノオロチ伝承の詳細など知る由もなく。
 地元愛にあふれた学友とは、知識にかなりのギャップがあったのだ。どなただったかは覚えていないのだが、その節は大変失礼なことをいたしました。
 けれど、この彼が言った「日野川」の話は、私の記憶にはしっかと刻まれてあって、そして今から10年ほど前だが、何かのはずみで「妻木晩田遺跡」の存在を知ったのだ。地図で調べてみると、すぐ横を「日野川」が流れていたではないか。「ああ、あの日野川だ! 大学の学友が語っていた!」
 そして小一時間調べて、今回ムーに書いた記事のあらすじを解き明かして、そして、そのまま忘れてしまっていたのだ。
 この種の謎解きは、日々つぎつぎとひらめく。だが自身が納得すると、誰に話すわけでもなく忘れてしまうのだ。だからおそらく忘れたままになっている謎解きは多数あるのだろう。
 そして去年の秋のこと。コロナが収束していた間隙をぬって出雲への取材旅行を敢行した。そもそも「忌部」の取材なので、玉作湯神社や粟嶋神社などが目的地だ。ついでに出雲特有の四隅突出型墳丘墓なども見て回ることにし、そうだそうだ、ヤマタノオロチの謎解きがあったっけ~とふと思い出して、あれを決着させるべく日野川の石霞渓などに立ち寄ることにしたのだ。
 旅行の日程は約2週間前に組んだ。出雲大社側から入って東へ進むルートにしたので、妻木晩田遺跡日野川は最後だ。だが到着した初日から、雨に降られてしまったのだ!
 終日雨、というわけではなく、晴れたり雨たり雲ったりを短時間でくりかえす山陰特有の日よりである。
 妻木晩田遺跡に行く前日には、早朝5時頃に激しい雷鳴で目が覚めたという、もう破茶滅茶な天候である。
 そして妻木晩田遺跡を訪れると、学芸員の方がこう仰ったのだ。
「今から30分ぐらいなら天気がもちます。今のうちに写真を撮りにいって下さい」
 いつ何時頃に着くと事前に連絡してあったので、天気予報を詳細に調べていてくれたのだ。
 そして撮れたのが、先の「八雲立つ」なのである。まさか、このような写真が撮れようとは、ゆめゆめ思っていないのだ。ここが「八雲立つ」語源の由来地であると、事前に誰が想像できよう(そもそも地図上は、ここは出雲ですらない)。

「よくぞ真相にたどり着いた。お前には特別なものを見せてやろう。これこそが『八雲立つ』なのだ」と、八束水臣津野(やつかみずおみずぬ)命の粋な計らいであったのだ、ということにしておこう。

 

「八雲立つ」仕組み

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 先の写真は、妻木晩田遺跡の西側丘陵から、西北西の境港市側を見ていたのだ(地図の赤い矢印がそう)。
 島根半島の突端は、美保関(みほのせき)美保の岬とも呼ばれるが、地図からも分かるとおり、山並みがかなり険しい。それが日本海に突き出ているのだ。
 風は、おおむね白い矢印の方向に吹く。そのことは、時間単位で変化するネットの天気図などを見ていただければ分かるだろう。
 日本海を渡ってきた風は多分に湿気を含んでいて、美保関の険しい山並みに当たると、雲をつぎつぎに生成させるのだ。その様子を、妻木晩田遺跡は、ほぼ真正面から見ているのである。そして沸き立った雲は、見ている側に、パノラマ状に(かつ放射状に)どわ~っと押し寄せてくるのだ。
 それがすなわち「八雲立つ」仕組みなのである。

 美保関と妻木晩田遺跡は約20キロ離れている。この写真では、境港市あたりは雨だろう。それが30分も経つと、こちら側にも雨が降り出してきて「全天虹の写真」が撮れた、といった経緯なのである。

 さらに古代は、写真の手前や左手側は、もっと海が広いので(イラスト参照)いっそう雄大な「八雲立つ」景色を眺めることができただろうと想像されるのだ。

 

                     つづく