【神神の契約】釈 

西風隆介による公式の謎本  

川越市の上円下方噴〝山王塚古墳〟の謎

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 山王塚古墳は、さきたま古墳群と大國魂神社の、ほぼ真ん中に位置するのだ。だが東経 139.4790 度線は、さすがに貫いてはいない。
 川越市教育委員会発行の「山王塚古墳発掘調査見学会資料」のpdfによると、入間川の右岸に、南大塚古墳群と呼ばれる古墳群が約3キロに渡って点在し、消滅した古墳も多いが現在27基が確認されており、大半が小さな円墳で、400年代前半から600年代末あたりの古墳だ。その最後に築造されたのが山王塚古墳なのだ。特異な上円下方墳で、しかも突出して巨大で、下方部の一辺63メートル、上円部径47メートル、高さ5メートルだ。体積比で熊野神社古墳の約4倍である。
 入間川の左岸にも古墳群があって、同様に大半は小円墳だが、その主峰が地図に示した牛塚古墳で、これが入間川流域では最大の前方後円墳だ(とはいっても50メートル弱で、600年頃の築造)。

 また、南大塚古墳に関しては、興味深い話が川越市役所のホームページに紹介されている。

www.city.kawagoe.saitama.jp

出土した埴輪について 今回の調査で出土した埴輪の破片は円筒埴輪のものがほとんどであり、その大部分は鴻巣市生出塚埴輪窯跡(おいねづかはにわかまあと)で焼かれたものでした。ここの埴輪は鉄分の多い赤茶けた色が特徴で、行田市の埼玉古墳群などを始め県内の多くの古墳に供給され、川越市周辺で見つかる埴輪の大部分が生出塚産です。」

  つまりずーっと以前から、ここは忌部の「お墓ビジネス」の上得意先だったわけなのだ。
 上の地図を再度見ていただこう。荒川の分岐点が示されているが、ここを西に入れば入間川で、本流を北へさかのぼっていけば鴻巣市の生出塚埴輪窯だ(ただし、これは現代の川筋で古代のそれは定かではない)。いずれにせよ、南武蔵 ⇔ 北武蔵間の頻繁に使っている水路から、ちょっと寄り道をすれば、ここに辿り着けたのだろう。

 けれども、生出塚埴輪窯は600年代初頭あたりで生産を止めてしまうのだ。大型古墳が造られなくなっていき需要が無くなるからだ。そこから(埴輪の取引がなくなってから)7~80年も経ってから、突如、上円下方墳という特異な墳形を拝借して本家の4倍もの大型古墳〝山王塚古墳〟を築造するとは、いったいどんな経緯だったのだろう?

 この川越付近も忌部の領地だったのだろうか。いや、それは考えにくい。
 倭(やまと)ですら、奈良盆地の南の端っこでちまちまやっていた時代なのだ。実際、多摩川以南の南武蔵だけで当時の倭より広いからだ。ためしに、南武蔵に大和三山を置いてみると、こうなる。

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  また、例の西角井正慶の〝神社分布図〟からは、川越や入間川流域は「氷川神社群」内であったことが分かるだろう。すなわち出雲族であり、忌部とは人種がちがうのだ。両者は、どんな間柄だったのだろうか……?

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  歴史部の面々が、なにやらひらめいたようである。
 次は、まな美と土門くんの話に耳を傾けてみることにしよう。