【神神の契約】釈 

西風隆介による公式の謎本  

蘇我氏の東国の拠点、世が世ならば神宮の〝蘇我比咩神社〟

 次のイラストは、国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所「霞ヶ浦の変遷・昔はどうなっていたか/約1千年前」の地図をベースに、神社4箇所を加筆したものである。

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 香取神宮鹿島神宮は、そもそもは要害で、国境で、蝦夷(えみし)に対する最前線基地だが、古代、香取の海を境にして北方は別の国だったのだ。
 だが、あのような辺鄙な場所に香取・鹿島の両基地を置いたって機能しない。バックアップが必要だ。房総半島の突端の安房や、南武蔵の多摩川沿いに〝忌部〟が拠点をもうけてはいたが、いかんせん遠すぎる。もっと近場に中継基地が欲しい、で出来たのが蘇我氏の拠点〝蘇我比咩神社〟なのだ。第15代応神天皇の命により蘇我一族が国造として派遣された、とそんな伝承だから、東国の他の主だった神社(香取・鹿島・安房・大國魂など)よりは新しく、ざっと西暦400年頃だろうか。

 蘇我宗家の滅亡は大化元年(645年)だが、その半年ほど前、蘇我蝦夷と入鹿の親子が甘樫(あまかし)岡に豪邸を建てた話が『日本書紀』に載っている。そのおり「常に五十の兵士を身にめぐらして出入りす。健人(ちからびと)を名づけて、東方の儐従者(しとべ/しとりべ)という」とあって、いわゆるボディーガードをはべらしており、それを東国の軍事拠点から呼び寄せていたらしいのだ。つまりここ〝蘇我比咩神社〟からだったのだ。 

 

 正三角形の頂点である大麻神社は 『神神の契約』242ページで説明したが、忌部の性質からいって軍事拠点ではなく、神霊的な守護が目的であったと想像される。
 鹿島神宮は、香取神宮から見て正確に45度、すなわち鬼門の方角に建っている(これはそこそこ知られた話だ)。では、その鬼門線を逆方向(南西方向)にずーっと延ばしていくと、ごく小っぽけな神社にピタリとあたるのだ。それが〝蘇我比咩神社〟なのである(こちらは本邦初公開のはずだろう)。
 鹿島・香取両神宮を鬼門守護にあてがうといった超豪華な仕組みなのだが、その後の蘇我氏の栄華っぷりを考えるに、さもありなんだろうか。また、この神社の位置決めには〝忌部〟が一役買っていたのでは、とも想像される。こんな遠距離の斜め線、三嶋一族の特殊技能(人間GPS)を借りないと不可能だからだ。
 いずれにせよ、鹿島神宮香取神宮蘇我比咩神社は、見事に一直線に並んでいる。だから世が世ならば 〝蘇我神宮〟だったはずなのである。